有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、或いは反逆のドゥ・ロワイユ=デュプレ。
「ただの道具」って何だろうかね。
 何となく先週の敷居氏cocoonPのやり取りを見てて、cocoonPのブログの過去ログとかを読んでて思いついたことを書く。1ヶ月も前のエントリにトラバってどうよってのは取り敢えずおいといて。
こんな【ニコマス】は嫌だ!!
↑の設問の逆。アイマス自体はどうでも良くて、アイマスはただの道具、という考え方の下、ただ「消費物」として扱っているものやひと。

 ってのが、前からモヤモヤしてたんだけれど、詰まるところ、自分はニコマスの動画を色々と見てて、例えば忙しいときなんかは余り出来のよいと思われない動画については1分くらいで「もういいや、時間ないし他見よ」とか言って戻るボタンを押してしまうこともあるんだけれど(いやこれは見る専として明らかにマズい態度だとは分かってますが)、ただそういう「大して愉しめなかった」動画も含めてニコマスの映像において、cocoonPが指摘するような属性を持った動画ってモノについぞお目にかかったことがありません。まぁ、それがあんたの見る目だよと仰られては立つ瀬もございませんが、要するに見る専側の理屈として、動画作るってのはメタクソに手間がかかるものという常識があり、つか自分自身が部活レベルでこの手の視聴覚芸術(まぁ簡単に言えば「テレビ番組」です)を作ることに携わってて決してそれが「簡単なもの」とは思ってなかったという経験則もあったので、少なくともわざわざ相応の手間隙をもってして映像と音楽を摺り合せている人が、「ただの道具、という考え方の下、ただ『消費物』として扱っている」みたいな考えで作品を作っていると考えるに至る理屈が到底理解できないというか。
 逆に、「ただの道具」的に扱ってる人がいるとしたら、それでもアイマス動画に敢えて参戦してPとして埋もれずに生き残れるってのは動画スキルの持ち主で優秀なPだとしか思われないというか、仮に実際そういう人がいると思われるならば、cocoonPほどの方ならば実名を挙げて筆誅を下してもバチは当たらないと思いますし、そういう人が例えばブログ持ちであるならば当然cocoonPに反論の一つもされるでしょうから、さぞや興味深くかつ素人から見ても非常に学ぶところの大きい動画論争が見られることも容易に想像されるので、是非こっくんにおかれましては実名で「ニコマスにおいてアイマスをただの道具として扱ってる」Pを論って頂ければなぁと思うのですが、果たしてどうでしょうか?と。ただ、cocoonPが言挙げされてる相手がPとかでなく、コメントしてるニコ厨とかだったら、この話はどーでもよくなるんで、まぁ余り気になされない方向で(ぇ。

 さて、ここまで書いて、もうちょっと思ったのは、更に主客の位置を変えて考えた場合、ってことで、例えばある曲を使ったアイマスMADを見て、
「音楽自体はどうでも良くて、音楽はただの道具、という考え方の下、ただ『消費物』として扱っている」
みたいなのはイヤだ、って考え方をする人もいるかもなぁ、みたいなこと。例えばMADが総合ランキングとかで上がってくると、「俺たちのほげほげを汚しやがって」的な元曲アーティストのファンの立場を借りたコメントにでくわすことがありますが、要するにそういう考え方をする人に対してアイマスのPがある程度元曲に対しても愛を持ってるから取り上げてる、みたいなことを説明するようなスタンスって結構紹介ブログとかには求められたりするのかな、みたいなことも考えたり。特に、最近ハロプロの秀作MADが続けて上がってる辺りで目立つのですが、コメントやタグに「3次元終了」とか書かれてるのなんかを見ると、自分はむしろ、cocoonPとは逆方向で
「ニコマスのPは音楽を道具としてしか扱ってない」
と非難される可能性を憂う部分もあったりします。例えば富竹Pのミスムンにおけるキャラ配置の妙や、慈風Pのロボキッスにおける神憑りな元PV再現なんかを見てると、明らかにこの人たちが筋金入りのハロヲタであったであろうことは疑う余地がないのですけれど、そういう所で元曲のユニットを侮るようなコメントを書いてる人って、Pに対しても失礼だよな、みたいなことは考えます。この辺り、作り手が必ずしもそう思ってなくても、コメントとかで勝手にそういうのがコミュニティの空気だと思われる危険性であって、なかなか度し難くはあるのですが。
ガンダム00へのツッコミについて、思ったこと
 がゆんダムに対しての、ある程度お約束な欧米人のツッコミはやはりあるようで。

武力による戦争根絶は可能なのか? ガンダム00の海外反響@せいちにっぽん

個人的にはだけど、ガンダム00における一番の問題は"24世紀になっても、人類は未だ一つになりきれずにいたのだ。"という前置きだよね。これは俺が今まで聞いた中で最も馬鹿げたコトバだよ。本当に、いったい誰がそんなことを願っているんだよ?
 個人的に思うのは、「戦争を根絶する」ことを人間社会の理想とするのは、戦後の日本人にとってはある種普遍的なんだけれど、世界的に見ればそこまで普遍的でもない(まぁ普遍的でなくもない、程度)ってことであり、更に踏み込んで「戦争を根絶する手段」として「世界を包摂する国家を超越した何かの確立」を以ってするのは、世界的に見れば確実に普遍的でない、というお話で、その辺りがガイジンによってツッコミ入れられる背景であるのかも。西洋人なんかは特に、自然状態においては「世の中が一つになる」というよりはむしろ「人類が世界に満遍なく他者と距離をおいて分散する状態」において平和が実現する、みたいに思うんじゃないかな。
 そもそも、人間が相対性という「重力の井戸」に魂を曳かれ続ける限りは、平和ってのはある種の暴力装置の実現に過ぎない。要するに、戦ってでもパイを奪い取ろうとする権利を奪い去られた中で、持てるマッチョに唾棄される存在として安住させられること、となるのであろう。とりわけパックス・ブリタニカのような経緯を経てきたセルティックな視点においては、戦争の根絶された世の中なんてある種のディストピアにしか映らんかも知れんよなぁ、みたいなこともしみじみと思ったりはする。まぁ現実には、第二次大戦後の欧州がある種の平和社会となった中で、Buckの負荷が少ない小国が逆説的に有史上稀に見る富裕化を謳歌するなんて現代史もあったりするんで、その辺りは何とも、かも知れないが。
 その上で、ガンダムOOにおける「戦争根絶」ってのは、プトレマイオスの中の人たちだけが勝手に思い描いてることで、そういう点で彼らを「戦争の犬」として描く方向になる、みたいなのはある程度当初から予想されるシナリオの一つではあったかなと思われ、その意味では彼らの幼さが「戦争根絶」という概念に繋がる、みたいな解釈としてみれば、さほどフルツッコするべき局面でもないのかな、などとも。まぁそれにスメラギのようないい年こいた年増(苦笑)まで乗っかるのはどうか、とは思わなくもないが。

俺を楽しませたこと、それは今回の話の最後、アイルランドでは今からさらに300年間とても激しい戦闘が続けられていたにもかかわらず、ソレスタルビーイングによる何回かの攻撃だけで紛争の終結に至ったということ。

笑い過ぎてイスから落ちそうになったよ。
 これについて思うのだが、要するにこの作品における「ガンダム」ってのは「報復不可能な存在」みたいなのがキモなんだよな、ということ。
 GNドライブを得たことで「ガンダムの終わり」と人革のエロい人が言ってたのがまさに端的であって。その意味では、IRAとかLTTEの類がテロを止めちゃうのは「空から突然湧いてきて、自分達を殺傷して帰ってく」相手に対して何も対応が出来ないから、という話になるのかと思う。これは、ある種日本独特の文化としての「後背地が存在しないのに何故か機能する圧倒的な兵器」というフィクション上のお約束を受け入れられるかどうか、なのですよね。要するに、CBみたいなのに攻撃されたら、基本そいつらに真正面から対抗するよりは、普通彼らの策源地というか銃後を襲って敵の戦意を挫こうとするのがテロリストなんだけれど、何故か日本のアニメという文化の上ではそういう「策源地」が存在しなくても戦闘のためのリソースが供給可能である戦力が存在可能となっている。これは、日本のスポ根漫画で、例えばボールが投手の手から離れて打者のバットに当たる(ないしはそれを通過する)までのコンマ何秒かの間に、物凄く長回しな科白が投手と打者の脳内で行われたりするのと基本的には同根であって、現実に有り得るかどうかはともかくとして、そこをツッコむのはある意味不毛なものなのである。ともあれ、そういう「反撃不可能な存在」に対してると考えれば、重力に魂を曳かれたテロリストたちが電気ショック実験の犬のような学習的無気力に苛まれたとしても、そう不思議でもないかなとも。
 何というか、話の展開的にトリニティが出て来て、沙慈のヌルいソープドラマが奪い去られ、グラハムが阿修羅をも凌駕し、刹那が「俺がガンダムだ」とタンカを切り、留美やアレ様の安い野望が見えてくるのが6話から10話くらいで普通の作品の流れとしては丁度いいだろうに、視聴者をあそこまで置いてけぼりにしておっぱいで間を持たせながら10話以上も費やしたのは、結局そういう「ガンダムの報復不可能性」を指示するためとしか考えようがないんだよね。それが成功してるかどうかは別として。
L4UのノーマルPV見ての雑感
 L4Uのアレンジ曲について、どうもニコとかのコメントを見る限りでは結構賛否両論だよなぁ、という感じはする。個人的には、結構愉しめてるというか、むしろ積極的に好きなのも多いし、その中には「走れリツコオー」な魔法をかけてAとかのような、やや不評に傾いてるっぽいのも含まれる。
 ともあれ、今回のこのアレンジってある意味非常に「アイマスらしい」印象もある。というのは、基本的には、アイマスがこれだけ流行ってる背景に「ベストプラクティスをいかに崩すか」みたいなのがある、と思っているから。わかむらPが指摘するように、ある意味「765の作ったノーマルは、MADでは越えられない」という側面は実はあり、要するに、音楽・振り付け・表情を総合して、アイマスはある種のベストプラクティスとして提供されたもの、であるに違いないであろう。しかし、現実には、アイマスが何処で「はじまった」かと言えば、エラい人が指摘するように「とかちつくちて」からである。そして「とかち」とは、「ノーマルの中でのミスマッチ」だった、とも言えよう。要するに、根本的にアイマスはキャラクターごとの持ち歌を緩やかに設定しているので、ベストプラクティスと言ってもノーマルの中でミスマッチが生じる。そういった「崩れたベストプラクティス」が発生することで、アイマスはひとつのカルチャーとして動き出したのだ。未だにメカご飯とかトブーとかは、そこそこの人気を保っていると思われる。
 そして勿論、MADもそういう「崩れたベストプラクティス」の産物である。例えば、ラテンの音楽にはラテンの振り付けやリズムが必要、みたいなのはダンスやフィギュアスケートなどの世界で評価をされる際には常識である。そして、アイマスの振り付け自体が元曲に最適化されている以上、MADはある意味、音楽のインタープリテーションとしては「間違い」である所は避け得ないであろう。しかし、MADはその「最適な」フォーマットを外しながら、それでいて面白いし、まさに「ニコニコ出来る」素材になっているのである。個人的に「技術」を生かしたMADは好きだけれど、技術の中にある種の「強引さ」が入った作品は実に愉しめると思う。詰まるところ、MADのシンクロも何処まで突き詰めたところで、そういう制約においての、いわゆる「力技」のアートなのだと思う。
 そういう観点で言えば、ある種の「ベストプラクティスの崩し」としてL4Uのアレンジを見ると、純粋にエンターテイメントとして面白いものが出来てるなぁ、という印象があった。ただ、アレンジが変わるならば音楽の性質が変わる中で、変わったアレンジに対しての「ベストプラクティスとしての振り付け」みたいなのを送り出してくれれば良かったかな、みたいな部分があるかも知れない。無論、振り付けが増えることでMAD職人の手数も増えたであろうということも含めて(笑)。あとは、TPTPのブログ読んでなるほどと思ったのだけれど、アレンジそのものよりは「音」の安さみたいな方が気になる、ってのはあったのかも。でも、箱○持ってたら結構愉しい時間過ごせただろうなぁと、率直に外部からは思わされる出来の作品には見えましたよ、と。
クリエイターと批評者の間。
悲しいのです@cocoonP

 恐らく、cocoonPはカズマ氏がここ最近「MADに対する格付け/ネガコメ」の是非を巡って悩んでおられたという文脈もご存知の上で書かれてるとは思うので、やや釈迦に説法かも知れないのだけれど、「自己承認のために声を出して欲しい」ってのは、「ネガティヴなコメント」をフィルタできるものではない、とは思うのですよね。もうちょっと言えば、「観る側」の視点で、別にそんな非難とか言うつもりはなくとも、結果としてPの創作意欲を大いに減退させるコメント、ってのはあるんではと思う。例えば有芝は過日サーディPのエフェクトについて「わかむらPのフォロワー的」と書いたけれど、これなんかは読み方によってはPの間で鼎の軽重というか、格付けしてるみたいなネガティヴな捉えられ方される可能性はあったなぁ、みたいなことは考えたりもしてて。あと、ある作品に関して観る側が勝手に講釈をぶった場合に、それが作り手の意図してた作り方と全然違う場合、そんなもの読んで作り手は「自己承認」的な感覚を得られるの?みたいなのはある。そうこう考えると、賢しらな解説や、或いは熱烈な愛着をベタに語ることもケースバイケースなんかも知れない。むしろ、いい作品はさらっと動画の上に「GJでした!!」と書くのが回りまわって最も確実度の高い「お布施」なのかなぁ、なんてことも「観る側」的に思ったりもする。

 ところで、恐らくアイマスの「観客」、まぁ「見る専」と置き換えてもいいですが、ってのは、基本的にクリエイターがアマチュアだってのを意識する部分が大きい故に、ある程度プロ相手よりも気を遣う傾向はある気がする。要するに、落語家ではないが「あくび3つですぐに死ぬ」クリエイターがいることを前提にした上で、「あくびでクリエイターを殺す」ことに対しての罪悪感を感じる傾向は強いんではないだろうか。これがプロ相手ならば、死ぬ方が悪い、こっちはカネ払ってんだ、という話になるんだろうけれど、対価を得ずに娯楽を提供するアマチュアにそれを適用するのはある種の不誠実というか、「観客道」にもとる、と。
 で、この辺りで感想ブログの立ち居地が難しくなる部分はあると思う。
 つまり、ブログのエントリってのは基本的にはそれ自体「創作活動」な訳です。それ自体が自己本位というか、MADを作るのと同様な「自己承認の撒き餌」としてのレイヤもある訳で、その感想文の対象たる作品の作り手に対してという視線だけで書いてる訳ではない。その意味では、感想ブロガーってのはその段階で、「単なる客」ではなくなってるのですよね。ある意味、自分の創作物として人に読ませる批評を書く文脈で、上述のような観客道にもとるようなことをしでかしてしまうかも知れない。そういう立場と「単なる客」として見る立場の間の板挟み的な部分に、カズマ氏の悩みはあるのかと。
#誤解ならすまんです >カズマ氏

 その上で、現状のカズマ氏のように「距離をおく」ようなスタンスも一つのやり方かも知れないが、それは確かに寂しいというか後ろ向きかもと思わなくもない。
 そんな中で、MAD作者が感想ブロガーの語らいを受けたい/感想ブロガーがMAD作者に気兼ねなくエントリを上げたいのならば、ある程度、感想ブログの中の人たちを「アイマスMADの創作の仲間」としてみる必要があるんじゃないかな、という気がする。例えば、P同士で議論するならば、ある程度辺りの丁々発止な議論も、自分の能力を高めるためみたいな感じで受け入れられるだろうけれど、それに近い感じで「ただの客」と会話する用意があるか、という話。実際、プロレスなんかにおいては、実況アナはある意味その存在自体がもはやプロレスラーそのものに近い。感想ブロガーがそういうものだという視点で、彼らとプロレスが出来る関係を持てれば、Pと感想の書き手の関係は向上するのかなぁ、なんてことを思ったり。関係ないけど、古館伊知郎がプロレスアナとしては素晴らしく、それ以外のスポーツ実況では毀誉褒貶があり、ニュースを語らせたら明らかに全然ダメなのは、プロレスアナをしてる彼はプロレスラーだった一方で、それ以外のスポーツにおいては実体の競技との関係がやや相対化されており、ニュースにおいては明らかに対象と自分を別物として対立させてるから、なんではと(その意味で、古館がプロレスアナだった時代を知る人ほど、現在の古館に失望してると思われ)。
 ただ、絵を描く/作るスキルの無い人がそういう所に気後れせずに上がれるかとか、MAD職人側でもそういう関係を築くには最低限のリテラシーを求める部分はあるのでは、って辺りはちょっと分からず、微妙に思案してしまうところではあるんだけれど……。

◆その他、本日の話題。
 本題とは関係ないですが、プリブラ150万にて、Sランク達成。
「クラーク、スタルヒン……」はちょっと面白かった。祭りとは関係ないが。

Princess Bride 1.5M
周回遅れでお届けする、iM@S KAKU-tail Party 2の俺ベスト5。
 てな訳で、大いに愉しんだ KAKU-tail Party について、標題の通り。順位は基本的に独断です。上位5作くらいをコンセプトに紹介しようかなと思ったのですが、微妙にインフレで7作をば。
コンテンツのフリーライドに関する雑駁な放言。
「こんなものに金を払う価値なんてない」@琥珀色の戯言

 や、その後に続く敷居氏有村氏辺りの議論を読みつつ、何となく「そもそも貧乏な市場を相手に商売するから貧するのではないか?」という激しく見も蓋もないことを思ったりした。歴史的に見ても、芸事をものする人ってのは「観客からの収入」をメインストリームとはしないか、それをメインストリームとするならば「観客」はある程度金持ちに限定されるのでは、という気がする。要するに、中世の路上で河原乞食なり琵琶法師なりがライヴを打つとき、そこに銭を落とすのは基本的には裕福な人に限られたと思うし、祭りの歌舞音曲や寺社の建築などはある種パトロン的な長者が経済的には最も大きな支えとなっていただろうし、また音楽の世界では、近代のかなり最近までは歴史に残るような名作音楽の作り手は大衆よりも貴族の方を向いて活動していたと思われる。それはそれで、「取りやすいところから取る」みたいな意味では現実的な判断であろう。その中で、「観客」としての大衆ってのは、おこぼれに預かるおまけに過ぎないわけだ。丁度、貴族の乗り物自慢が競馬というスポーツを生み、その見物人に馬券を売るブックメイカーが現れ、気づいたらダービーの日にはロンドンからエプソム街道に長蛇の列がなされるようになっても、あくまで騎手や調教師はブックメイカーからではなく専ら馬主という大金持ちから給金を得ていた、みたいな図式に近いのかなと。
 で、そういった金払いのいい大旦那が「貴族」から「TV局」なり「レコード会社」なりに変わっていったってのが現代の図式としてはあろうかと思われる。それは、ある意味「民主的」な世界への移行という点では妥当でありポジティヴな変化ではあったし、また観客はある程度以上こちらの方を作り手が見てくれるというメリットを享受できるようになった。ただ、究極的にはこれは「カネを出せない相手に商売する」みたいなモデルではある。その意味では、相当なマスを相手にしないと利潤を上げづらいジャンルの商売なのではないかな、とも。その上で、アニメってのはモデルとしてニッチである、というか、昔はそれこそ上見ればアラレちゃんとか視聴率30%も叩き出してたんだからマスだったかも知れないけれど、今のアニメは少なくともそんな形態でのマスを相手にはしてない。そうなるとビジネスモデルとしては成立しづらいようにも思われる。或いは、「裕福な層をターゲットにしたアニメ」みたいなのを作るか?なんていうとヨタになってしまうけれど、アニメってのはその意味で客層が変えづらいのが難しいよね、なんてことも。

 しかし、詰まるところアニメ制作にカネが落ちないのはある程度中間搾取の問題もあるけれど、元のギャラの安さもあるのかなぁ、なんてことは思う。その上でちょっと思うのは、日本ってTVマネーが何でクリエイターというか、一次生産者の所に落ちないのかな、みたいなこと。例えばアメリカの4大スポーツなり欧州のチャンピオンズ・リーグなりってのは巨大なTVマネーが上位チームの給料を押し上げてるという話はよく聞かれるけれど、素朴に思うのは「奴らなんでそんなお金持ってるの?」みたいなこと。まぁ勿論そのカゲでは2部以下の弱小なクラブなりマイナーリーグなりでは、ある程度以上爪に火を点すような暮らしをしてたりとか、そもそも欧州だとクラブ自体がそれでも足りずに借金しまくったりとか色々あるけれど。ただそれにしても、TVマネーとして桁が違いすぎるというか、その辺りを思うに、よく「中抜き」みたいな感じで言われるけれども、実はTV局や広告代理店自体が日本ではスポンサーに相当ピンハネされた状態なんではないかなどと愚考してしまう。
 この辺りの彼我の違いって、結局バブルとともに「メセナ」という言葉が死語になったのだけれど、要するに日本の企業がある程度文化投資を当然のものとするようにモデルチェンジする前にバブルが潰れて時代が変わっちゃったのかなと感じなくはない。ところで、よく「品格」とかを語る本が昨今売れたりするけれども、実は「品格」って、格差の上位にいる人の鏡なんだよな、ってことは思う。で、そういう「品格」を語る中で、文化とか趣味とかって結構大事。例えば金持ちがある程度「趣味が金儲け」みたいな状況では、社会全体の「品格」も生まれてこないのではないかと。その意味で、今の世間的に有名な経営者なり政治家なりで「大旦那的」な趣味人という風体を漂わせる人がもうちょっといれば、世の中の空気全体が良くなるのかな、みたいな思いはあるんだけれどもね。ただ、今時の世の中においてそういう「余裕」をひけらかす人は、格差の下の側から変に妬みを買うような部分もあって、その辺で文化とか品格とか、そういった辺りのマイナススパイラルが起きてるような感じ。
例の削除騒動について。
 実は自分で余りデPの作品見てないのでアレだが。

クリプトン、「公序良俗に反する」ミク作品をニコ動から削除 判断基準も公開@ITMedia

 根本的な部分として、「エロ系コンテンツを制限する」ことによって権利者と二次創作者の関係がある程度良好なものになるならば、規制はあって然るべきだろう。例えば、過日バンナムのエロ……じゃなくてえらい人が「いやぁ、ニコニコのお陰でアイマス売れてさまさまっすよ〜」みたいな趣旨の発言を行ったことが注目されたが、恐らくコミケや従来の二次創作個人Webサイト程度の自由度でアイマスのMADが作られていたら、ここまで踏み込んだ発言はされないだろう。つか、同人をある程度齧った人なら、上記の発言って「あんた、それ言うか?」みたいな感想は持ったと思う。要するに、ニコニコなりその他の動画共有サービスは基本的に18禁エロを規制しているのだけれど、その範囲で二次創作者が『囲い込まれて』くれる、ってのは、二次創作をある種の広告媒体として見立てた場合に非常に好都合である、という事情はあるだろう。まぁニコマスでも時々↓のような怪しいサムネが出ても、実際中身は閣下が周囲を破壊しつくす映像なだけだったりするんで(笑)。



 で、こういう状況が二次創作者をしてある程度「アンダーグラウンド」から開放するものであるとするならば、それは二次創作者の側から見てもそう悪い話ではない、とは思う。勿論、アンダーグラウンドであるからこそ自分の表現が見出せる人もいるだろうし、それは一概ではないけれども、個人的には従来の同人二次創作におけるコンテンツの権利者と二次創作者の関係がある種のヘルシーさに欠けるものであったことは、色々と双方にとって不都合をもたらすものであったとは思われるだけに、まぁ動画というコンテンツのレイヤにおいてその辺りの関係が改善されるとすれば、一つの実験としてはありなんじゃないかとも。

 ただ、ちょっとクリプトンがしくじってる、みたいなのはあって、それは以下の部分。
※"公序良俗"の判断基準については弊社では「TV放送できるか否か」をひとつの判断基準としています。例えば性的表現に関しては視聴者に困惑・嫌悪の感じを抱かせないように注意しています。家族がそろって視聴した場合、露骨な表現描写をすることによって困惑・嫌悪の感じを抱かせないように注意をしています。(民放連の放送基準より一部参照)
 ちょっと考えれば分かるのだけれど、「動画」がコンテンツとして提供される媒体は「TV放送」だけではない。ビデオ・DVD限定の作品があれば、ゲーム内の動画もある。しかも「TV放送」でも地上波やCS(条件によっては18禁の映像の提供も行われる)が存在するのだし、この発言は如何にも脇が甘すぎる。例えば、ニコ動だと↓のような電波ソング系な作品がそこそこ人気したりする訳だが、これは「TV放送」を「地上波アニメ」のレベルで捕らえた場合はかなりの確率でファールなんではないんだろうか?



 あと分かりやすい例として、誰もがご存知の100万再生コンテンツで、これとか。



 この手の下ネタ系というか、そういうものって結構70〜80年代には当たり前にお茶の間に電波として存在してたのが現在はかなり規制されているんだけれど、その辺りが結局TVというコンテンツにおいてどう影響を与えるかというと、やはりある種の活力を奪っている感はある。その上で、現状のネットはまだ70年代的フリーダムの展開される余地がいくらでも残っている面はあり、その点で「現代のTV文化」に合わせてしまうと、自身のコンテンツの競合力を落としかねない部分はある、と思うんですよね。要するに、クリプトンより緩い線引きで勝負できる新規参入を許してしまう、みたいな(それがどういうコンテンツかは知らんけれど)。
 あと、ちょっと「ひとつの判断基準」という言葉も腑に落ちない。それは、幾つかの判断基準の積集合に入った作品だけを削除する、ってことなのか、幾つかの判断の和集合に入った場合に「削除の可能性が発生する」なのか、とすると、ひょっとすると後者ではないかという予断を抱かせる。つか、実際後者なんじゃないの?とも。その上で、ある程度「可能性」の範囲で融通無碍に対応すると、それこそ「また『お目こぼし』の世界かよ」みたいな話になる訳で。で、それをやるならば、結局「削除基準の公開と議論の可能性」を残すしかないんじゃないの、とも。まぁ2ちゃんの削除板的な対応というか。
 いずれにせよ、「納得いかない削除」であるならば、それはどうしても「共有されたサービス」の外で流通する確度が高くなる訳で、そういう「共有されたサービス外」を余り繁栄させないような対策がクリプトンのような企業側に求められるには違いないかなと。
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