◆転居することの大きな負担と千早お誕生日おめでとう@有村悠氏
んー、何かどうも読んでてげんなりとしてしまう面もある。
確かに、転居におけるリスクが相応に存在するのは事実だろう。しかし、どうもこの論調自体が「流動性の拒絶」みたいなニュアンスに受け止められる面はあるんだよなぁ、と。要するに、「何かリスクテイクしてまで幸福になる方法を模索しなければならない状況こそが、不幸である」とするパラダイムというか、鼓腹撃壌至上主義というか。それはつまり、「流動」を選択しないことが「幸福」に繋がる、という考え方であるようにも。
一方で、若干視点を変えると現代の日本の問題として、自分の中で「日本人に根強い『流動性の拒絶』が、現代においてある種のミスマッチを引き起こしていること」に関しての問題意識とかはあって、例えば雇用流動性を下げる終身雇用システムが新卒至上主義を産んでロスジェネを苦しめてる、なんてのはその典型。また、パラダイス鎖国的な「日本人が『内に籠る』」ことに起因するような問題なんかも、ある意味日本人の「流動性」に対する耐性の弱さのようなものを背景にしてる、みたいな考えもあったりで。そんな中で、ロスジェネど真ん中で恐らくその時代の被害者を誇らしく自認するような立場の人から「流動性の拒絶」に対して肯定的と取れるような議論を目にすると、どうも救い難い自縄自縛感を感じずにはいられんよな、とも。何というか、自分の提示している「幸福モデル」が、巡り巡ると自分を幸福にしないシステムの支えとして機能している、みたいな。
その上で、ある種の「幸福モデル」として流動性を下げることは、現状ネガティヴに働いてる面も多いのだけれど、人が一度獲得した「幸福モデル」を変更するのは難しいのかな、との思いもある。余り「農耕民」「狩猟民」的な民族性モデルが妥当なのかは分からんけれど、「農耕民的」なパラダイムの積み上げられた歴史なんてものはあったりする訳で。そうなると、来るべき世代が、新しい幸福モデルを意識して行動することを啓蒙するよりは「流動性の高い社会は日本人を幸福にしない」という前提条件で、いかに流動性のない状態で、この国が世界に伍して持続的な国家として維持できるか、みたいなアプローチでやれる施策を探していくなんて手もあるのかなぁとも。ただ、そっちのが明らかに隘路なんだよなぁ。長期的には、リスクテイクによって幸福を模索する人を育てる一方で、そういう人たちに「リスクテイクを是としない世代が存在する」みたいなことを意識させて、そういう人たちを幸福に領導ことが「リスクテイク出来るエリート」の役割である、とする道徳教育を徹底するようなマクロモデルが必要なのかも知れない。これはこれで、微妙に絵空事っぽくもあるが。
◆以下、Tom Fool の余談(謎)。
ところで、元のdankogai氏のエントリ辺りから自己責任議論が喧しいが、「自己責任論」に対抗する言論を打つときに、ある程度それが自己以外の何かへのバックパシングなのかそうでないかって辺りは、ちょっと気にして読む部分ではある。詰まるところ、それが不明確なケースはもとより、誰か明確なバックパシングの対象があるとしても、人間(ないしはその延長としての「権力」とか、その他もろもろ)が行う判断について、その人間が責任を持てる範囲なんてのは、限定的なものであろうという気がしている。例えば「世の中を変える」といえばカッコいいけれど、「世の中を変える」ことは、確実にその変化が喚起するトレードオフによる無辜の被害者を生む。ただ、「世の中を変えた」偉人なりキチガイなりに徒にその責を負わせても、何か出てくるものではなかろう。人が何がしかの責任を常に背負えると思うことこそが、(ラディカルな自己責任論と同様な)ある種の人間性への過信に見えたり。
一方で、何がしかの苦しみに対して、最終的に何かアトリビュートするものを求めても得られない、というのは、もう一つの大きな苦しみではある。その苦しみは、詰まるところ半径ワンクリック相当の距離感のコミュニティにおいてしか慰撫されざるものであろう。「自己責任」というものは必ず大なり小なり存在するものであるには違いないが、「自己責任論」の名において上記のようなコミュニティの作用から個人を閉ざすことになるならば、それは慎むべきものだと思われる。反面、アトリビュートするものを無闇に追及するバックパシングには、そういう「コミュニティ」に帰ることが出来ない悲しさを感じる部分もあったりするものである。
んー、何かどうも読んでてげんなりとしてしまう面もある。
確かに、転居におけるリスクが相応に存在するのは事実だろう。しかし、どうもこの論調自体が「流動性の拒絶」みたいなニュアンスに受け止められる面はあるんだよなぁ、と。要するに、「何かリスクテイクしてまで幸福になる方法を模索しなければならない状況こそが、不幸である」とするパラダイムというか、鼓腹撃壌至上主義というか。それはつまり、「流動」を選択しないことが「幸福」に繋がる、という考え方であるようにも。
一方で、若干視点を変えると現代の日本の問題として、自分の中で「日本人に根強い『流動性の拒絶』が、現代においてある種のミスマッチを引き起こしていること」に関しての問題意識とかはあって、例えば雇用流動性を下げる終身雇用システムが新卒至上主義を産んでロスジェネを苦しめてる、なんてのはその典型。また、パラダイス鎖国的な「日本人が『内に籠る』」ことに起因するような問題なんかも、ある意味日本人の「流動性」に対する耐性の弱さのようなものを背景にしてる、みたいな考えもあったりで。そんな中で、ロスジェネど真ん中で恐らくその時代の被害者を誇らしく自認するような立場の人から「流動性の拒絶」に対して肯定的と取れるような議論を目にすると、どうも救い難い自縄自縛感を感じずにはいられんよな、とも。何というか、自分の提示している「幸福モデル」が、巡り巡ると自分を幸福にしないシステムの支えとして機能している、みたいな。
その上で、ある種の「幸福モデル」として流動性を下げることは、現状ネガティヴに働いてる面も多いのだけれど、人が一度獲得した「幸福モデル」を変更するのは難しいのかな、との思いもある。余り「農耕民」「狩猟民」的な民族性モデルが妥当なのかは分からんけれど、「農耕民的」なパラダイムの積み上げられた歴史なんてものはあったりする訳で。そうなると、来るべき世代が、新しい幸福モデルを意識して行動することを啓蒙するよりは「流動性の高い社会は日本人を幸福にしない」という前提条件で、いかに流動性のない状態で、この国が世界に伍して持続的な国家として維持できるか、みたいなアプローチでやれる施策を探していくなんて手もあるのかなぁとも。ただ、そっちのが明らかに隘路なんだよなぁ。長期的には、リスクテイクによって幸福を模索する人を育てる一方で、そういう人たちに「リスクテイクを是としない世代が存在する」みたいなことを意識させて、そういう人たちを幸福に領導ことが「リスクテイク出来るエリート」の役割である、とする道徳教育を徹底するようなマクロモデルが必要なのかも知れない。これはこれで、微妙に絵空事っぽくもあるが。
◆以下、Tom Fool の余談(謎)。
ところで、元のdankogai氏のエントリ辺りから自己責任議論が喧しいが、「自己責任論」に対抗する言論を打つときに、ある程度それが自己以外の何かへのバックパシングなのかそうでないかって辺りは、ちょっと気にして読む部分ではある。詰まるところ、それが不明確なケースはもとより、誰か明確なバックパシングの対象があるとしても、人間(ないしはその延長としての「権力」とか、その他もろもろ)が行う判断について、その人間が責任を持てる範囲なんてのは、限定的なものであろうという気がしている。例えば「世の中を変える」といえばカッコいいけれど、「世の中を変える」ことは、確実にその変化が喚起するトレードオフによる無辜の被害者を生む。ただ、「世の中を変えた」偉人なりキチガイなりに徒にその責を負わせても、何か出てくるものではなかろう。人が何がしかの責任を常に背負えると思うことこそが、(ラディカルな自己責任論と同様な)ある種の人間性への過信に見えたり。
一方で、何がしかの苦しみに対して、最終的に何かアトリビュートするものを求めても得られない、というのは、もう一つの大きな苦しみではある。その苦しみは、詰まるところ半径ワンクリック相当の距離感のコミュニティにおいてしか慰撫されざるものであろう。「自己責任」というものは必ず大なり小なり存在するものであるには違いないが、「自己責任論」の名において上記のようなコミュニティの作用から個人を閉ざすことになるならば、それは慎むべきものだと思われる。反面、アトリビュートするものを無闇に追及するバックパシングには、そういう「コミュニティ」に帰ることが出来ない悲しさを感じる部分もあったりするものである。
◆消えかけの信号@増田
人生の結構長い割合をいわゆる「ニュータウン」と呼ばれる場所で過ごした身としては、なかなかしんみりとするエントリ。
それにしても、自分の親たちはなぜに子供がいずれ独立しても二世帯で住むとは期待していなかったのに、郊外に規格の大きな家を建ててしまうのだろうかなどと考えてしまうが、冷静に考えれば我々が子供の頃に例えば自分の部屋すらなければ、それは結構な苦い思い出として残るものであるだけに、やはりどうしても、例えば子供が2人いるような世帯ならば、4LDKとかそういう規格の家を建ててしまおうとして、そうなると郊外に建てるしか選択肢がないとか、色々あったのだろう。今はそういう「実家」に2週に一度程度帰る生活をしているのだけれど、ある意味そういう部分で子供としての負い目みたいなのを感じつつ、みたいなのはある。一方で、うちのマンションに対して「狭い」と文句を言う親に対しては、いやぁ広くしてもいずれ子供出てくでしょ、みたいなことも思ったりもしつつ。
一方で、現在親子3人で葛飾のような路地の狭い都内に暮らしつつ、時折そんな無駄に道幅の広いニュータウンに戻りつつ思うのは、案外ニュータウンという空間も、おそらく当初は予想していなかったような形態で、味が出てきているのかな、みたいな辺り。結果として「判を押したように作られた」街は、やはり自分が現在暮らしている場所に対して、ある種の非日常を提供しうる存在にはなっている、と思う。たぶん子供が物心ついたら、こういう場所が彼にとっての「田舎」の原風景となるのだろう。その上で、有芝が帰省するニュータウンとかだと、無駄にスプロールして大規模店舗が建ち並んでいるのだが、そこで買い物をしてると、意外なまでに自分世代かそれより下の親子連れを多く見かける。一体何処から湧いてくるんだこの世代、みたいな感覚はあったり。しかしそんな自分もベビーカー押してるわけで、まぁ基本的には自分と同じで、親元に時々帰ってきてる子世代なのかなと思いつつ。あるいは、遠くから車で来ている向きも多いのだが、要するに田舎ものにとってのハブとしてこういうインフラが機能しているのかな、なんてことも思わなくはない。
確かに、街は老いている。
しかし、そこがある程度でも「帰ってくる場所」みたいに思っている人がいる限り、その街はある意味命脈を保つのかな、なんてことも考える。団塊ジュニアのニュータウン族にとって、ニュータウンってのは、まだそんな場所、なのかも知れない。実際のところはケースバイケースというか、よくわからない部分はあれど。
人生の結構長い割合をいわゆる「ニュータウン」と呼ばれる場所で過ごした身としては、なかなかしんみりとするエントリ。
それにしても、自分の親たちはなぜに子供がいずれ独立しても二世帯で住むとは期待していなかったのに、郊外に規格の大きな家を建ててしまうのだろうかなどと考えてしまうが、冷静に考えれば我々が子供の頃に例えば自分の部屋すらなければ、それは結構な苦い思い出として残るものであるだけに、やはりどうしても、例えば子供が2人いるような世帯ならば、4LDKとかそういう規格の家を建ててしまおうとして、そうなると郊外に建てるしか選択肢がないとか、色々あったのだろう。今はそういう「実家」に2週に一度程度帰る生活をしているのだけれど、ある意味そういう部分で子供としての負い目みたいなのを感じつつ、みたいなのはある。一方で、うちのマンションに対して「狭い」と文句を言う親に対しては、いやぁ広くしてもいずれ子供出てくでしょ、みたいなことも思ったりもしつつ。
一方で、現在親子3人で葛飾のような路地の狭い都内に暮らしつつ、時折そんな無駄に道幅の広いニュータウンに戻りつつ思うのは、案外ニュータウンという空間も、おそらく当初は予想していなかったような形態で、味が出てきているのかな、みたいな辺り。結果として「判を押したように作られた」街は、やはり自分が現在暮らしている場所に対して、ある種の非日常を提供しうる存在にはなっている、と思う。たぶん子供が物心ついたら、こういう場所が彼にとっての「田舎」の原風景となるのだろう。その上で、有芝が帰省するニュータウンとかだと、無駄にスプロールして大規模店舗が建ち並んでいるのだが、そこで買い物をしてると、意外なまでに自分世代かそれより下の親子連れを多く見かける。一体何処から湧いてくるんだこの世代、みたいな感覚はあったり。しかしそんな自分もベビーカー押してるわけで、まぁ基本的には自分と同じで、親元に時々帰ってきてる子世代なのかなと思いつつ。あるいは、遠くから車で来ている向きも多いのだが、要するに田舎ものにとってのハブとしてこういうインフラが機能しているのかな、なんてことも思わなくはない。
確かに、街は老いている。
しかし、そこがある程度でも「帰ってくる場所」みたいに思っている人がいる限り、その街はある意味命脈を保つのかな、なんてことも考える。団塊ジュニアのニュータウン族にとって、ニュータウンってのは、まだそんな場所、なのかも知れない。実際のところはケースバイケースというか、よくわからない部分はあれど。
ぶくまでコメントが入りきらない部分のエントリ移行。
◆福田政権の無為と女性的資本主義について@内田樹センセイ
◆累進課税2.0@dankogai氏
んー、難しいというか悩ましいというか。
言わんとすることは分かる、というか、消費ってのは結局ある程度進歩した経済圏においてはある種の「ムダ」がベースであり、その消費における「ムダ」の創出者が「一部のノブレス」よりは「万民」である方が社会的により正しいかも知れない、というか少なくとも進歩的であるには違いないだろう。その意味で、格差を均すことやベーシック・インカムを正当化するってのも理屈としては分かる気はしなくもない。ただ、本朝の現状を見るに、今のこの国の娯楽世界においてはかつてないほどにボトムアップベースで「ムダ」が創出されている世の中のように見えてたりもする。俺がネットに浸りすぎてるせいかも知れんが。そして、その消費社会が実際のところどうなってるかというと、結局のところ、ボトムアップであるからこそ、「最低限の出費で最大のムダを創出する」というある種の「ムダの効率化」に突っ走ってるように見えて、それが消費全体の数字を伸び悩みさせてるんではないかなぁ、とも見えるんだよね。チープ化の罠、というか。そうなると、全体として文化的な生活を送ってても、カネが回らないから結局のところ消費社会としてややジリ貧な印象も否めないなぁと。
で、自分は、結局のところ、ステータスシンボル的というか、金持ちの創出する「ムダ」を中流以下にブレークダウンする古典モデルの方が現状機能するんでは、とも思わなくはない。俺がフサイチ的な大旦那主義をある程度好み、以前dankogai氏に対して「金持ちなら宵越のカネ持たないくらい金使いやがれ」みたいなdisなぶくま※を書いてた背景ってのもその辺にあったりする。要するに、そういう「金持ちによるムダの創出」が、ある種の喜捨というか、それ自体が格差間の等価交換的なメカニズムになる、みたいな形態というか。ただ、ちょっと自分の今の考えが正解なのかも、今ひとつ自分の中でも判然としない部分はある。
実際のところ、「消費社会」を幸福に回す資本主義のシステム、なかなか簡単そうで難しいよなぁ。
◆福田政権の無為と女性的資本主義について@内田樹センセイ
◆累進課税2.0@dankogai氏
んー、難しいというか悩ましいというか。
言わんとすることは分かる、というか、消費ってのは結局ある程度進歩した経済圏においてはある種の「ムダ」がベースであり、その消費における「ムダ」の創出者が「一部のノブレス」よりは「万民」である方が社会的により正しいかも知れない、というか少なくとも進歩的であるには違いないだろう。その意味で、格差を均すことやベーシック・インカムを正当化するってのも理屈としては分かる気はしなくもない。ただ、本朝の現状を見るに、今のこの国の娯楽世界においてはかつてないほどにボトムアップベースで「ムダ」が創出されている世の中のように見えてたりもする。俺がネットに浸りすぎてるせいかも知れんが。そして、その消費社会が実際のところどうなってるかというと、結局のところ、ボトムアップであるからこそ、「最低限の出費で最大のムダを創出する」というある種の「ムダの効率化」に突っ走ってるように見えて、それが消費全体の数字を伸び悩みさせてるんではないかなぁ、とも見えるんだよね。チープ化の罠、というか。そうなると、全体として文化的な生活を送ってても、カネが回らないから結局のところ消費社会としてややジリ貧な印象も否めないなぁと。
で、自分は、結局のところ、ステータスシンボル的というか、金持ちの創出する「ムダ」を中流以下にブレークダウンする古典モデルの方が現状機能するんでは、とも思わなくはない。俺がフサイチ的な大旦那主義をある程度好み、以前dankogai氏に対して「金持ちなら宵越のカネ持たないくらい金使いやがれ」みたいなdisなぶくま※を書いてた背景ってのもその辺にあったりする。要するに、そういう「金持ちによるムダの創出」が、ある種の喜捨というか、それ自体が格差間の等価交換的なメカニズムになる、みたいな形態というか。ただ、ちょっと自分の今の考えが正解なのかも、今ひとつ自分の中でも判然としない部分はある。
実際のところ、「消費社会」を幸福に回す資本主義のシステム、なかなか簡単そうで難しいよなぁ。
◆防火羊水@小田嶋センセイ
んー、微妙にツッコミどころもあって。
本件について何となく思うのは、そもそもこの発言自体はある程度おバカ発言というか、「ババアは早く氏ね」とかに近い程度の発言であり、確かに暴言には違いない(それも誰かTV上の人物に向けたものではなく、視聴者一般に向けられているだけに)のだけれど、個人的に「謝罪されてもな……」的な部分はある。というか、この発言に関して思ったことは「このタレントはアホである」であり、それを謝罪した所で「アホであると認識したこと」を撤回しようがない、みたいな部分があるので。一方で、初めから「アホである」ということに関して「許す/許せない」みたいなレイヤで考えてないので、「どれだけ謝罪しても許せん」的な感情は全くなく、もうちょっと言えばまぁ俺の世代的には怒ってもいい発言だと思うけれど、それだけで「許せない」と思うほど烈火のごとく怒るものでもないかな、とも。
で、ここで「俺の世代的に」とカイタノだけれど、基本的に「ババアは早く氏ね」レベルの発言ってのは、その逆である「近頃の若い者は」発言と同様、世代によるバイアスによって支持/不支持の分かれるタイプの発言である。その上で、倖田來未にとっての主要な客層ってのは本来、そのバイアスによって不支持が発生しない所の客層なのではないか。要するに、彼女はアイドルでも女優でもなく、アーティストなはずである。「アイドルに興味ありません」by 如月千早の筈である(笑)。いや、モーニング娘。のオーディション受けてたとかそういう黒歴史は置いといて(苦笑)。
「この程度の失言でタレント生命を断たれるようでは、芸能人なんかやってられないぞ」
という話ではなく、
「この類の失言でタレント生命を断たれるべきではない存在」
ではないか、と思う。それが、現実に平謝りせざるを得ない程度に動揺させられたのは、ある意味、この手のアーティストが「非アーティスト的な活動」に依存しないとならない現代の構図である、とも言えるだろう。ここで宮崎あおいが言及されているが、実際小田嶋センセイがハズしているなぁと思うのは、宮崎あおいこそがNANA・純情きらり・篤姫を通じて、「20代後半より上の世代」を主な客層とするタレントである、という点である。因みに蒼井優と宮崎あおいは俗に「Wあおい」と呼ばれてるらしいが、どちらも麻智さん@30台前半の大好物である(笑)。それだけに、宮崎あおいが仮にこの手の失言をした場合、そのインパクトは倖田來未の比ではなかったのではないか、最悪の場合「篤姫」は途中から主人公が和宮に変わって堀北真希大忙しな展開となるやも知れぬとすら思われ。
と若干話が逸れたが、要するにこの少子化とデフレの現在、パケ代にあかして碌に遊ぶ金もない若い中高生辺りをターゲットにした商売が成立しづらい、という状況の中で、ある程度世代を選ばない方向で売らざるを得ない、みたいな事情はこのアーティストにはあったのではないか、と思う。そして、そういう形で商圏をセットした中において、本来の客層となるべき世代向けの発言が、副次的な客層の世代に敵する格好となっていた、また副次的な客層の側もそれこそ「ジャリガキ世代向けのタレントがこっちの方まで侵入してきてる」的な抵抗感が潜在的にあった、みたいな文脈で炎上した、ってことなのかなぁとも。
◆でも。
確かに宮崎あおいって良く分からんスキャンダル耐性の強さ、みたいなのはあるかも知れん。まず、結婚したのにあれだけきっちりスルーされるスルーされ力は異常。つか、結婚したら本人の意識面で結構変わる部分で芸風に影響が出る面があると思うんだけれど、あの娘本当に「純情きらり」と全く同じノリで大河やってるもんなぁ。あの辺りのしなやかさを考えると、小田嶋センセイ的見解も有り得なくはないか、とちょっと思ったりはしてしまうのだけれど、その辺りは、まぁ。
んー、微妙にツッコミどころもあって。
本件について何となく思うのは、そもそもこの発言自体はある程度おバカ発言というか、「ババアは早く氏ね」とかに近い程度の発言であり、確かに暴言には違いない(それも誰かTV上の人物に向けたものではなく、視聴者一般に向けられているだけに)のだけれど、個人的に「謝罪されてもな……」的な部分はある。というか、この発言に関して思ったことは「このタレントはアホである」であり、それを謝罪した所で「アホであると認識したこと」を撤回しようがない、みたいな部分があるので。一方で、初めから「アホである」ということに関して「許す/許せない」みたいなレイヤで考えてないので、「どれだけ謝罪しても許せん」的な感情は全くなく、もうちょっと言えばまぁ俺の世代的には怒ってもいい発言だと思うけれど、それだけで「許せない」と思うほど烈火のごとく怒るものでもないかな、とも。
で、ここで「俺の世代的に」とカイタノだけれど、基本的に「ババアは早く氏ね」レベルの発言ってのは、その逆である「近頃の若い者は」発言と同様、世代によるバイアスによって支持/不支持の分かれるタイプの発言である。その上で、倖田來未にとっての主要な客層ってのは本来、そのバイアスによって不支持が発生しない所の客層なのではないか。要するに、彼女はアイドルでも女優でもなく、アーティストなはずである。「アイドルに興味ありません」by 如月千早の筈である(笑)。いや、モーニング娘。のオーディション受けてたとかそういう黒歴史は置いといて(苦笑)。
「この程度の失言でタレント生命を断たれるようでは、芸能人なんかやってられないぞ」
という話ではなく、
「この類の失言でタレント生命を断たれるべきではない存在」
ではないか、と思う。それが、現実に平謝りせざるを得ない程度に動揺させられたのは、ある意味、この手のアーティストが「非アーティスト的な活動」に依存しないとならない現代の構図である、とも言えるだろう。ここで宮崎あおいが言及されているが、実際小田嶋センセイがハズしているなぁと思うのは、宮崎あおいこそがNANA・純情きらり・篤姫を通じて、「20代後半より上の世代」を主な客層とするタレントである、という点である。因みに蒼井優と宮崎あおいは俗に「Wあおい」と呼ばれてるらしいが、どちらも麻智さん@30台前半の大好物である(笑)。それだけに、宮崎あおいが仮にこの手の失言をした場合、そのインパクトは倖田來未の比ではなかったのではないか、最悪の場合「篤姫」は途中から主人公が和宮に変わって堀北真希大忙しな展開となるやも知れぬとすら思われ。
と若干話が逸れたが、要するにこの少子化とデフレの現在、パケ代にあかして碌に遊ぶ金もない若い中高生辺りをターゲットにした商売が成立しづらい、という状況の中で、ある程度世代を選ばない方向で売らざるを得ない、みたいな事情はこのアーティストにはあったのではないか、と思う。そして、そういう形で商圏をセットした中において、本来の客層となるべき世代向けの発言が、副次的な客層の世代に敵する格好となっていた、また副次的な客層の側もそれこそ「ジャリガキ世代向けのタレントがこっちの方まで侵入してきてる」的な抵抗感が潜在的にあった、みたいな文脈で炎上した、ってことなのかなぁとも。
◆でも。
確かに宮崎あおいって良く分からんスキャンダル耐性の強さ、みたいなのはあるかも知れん。まず、結婚したのにあれだけきっちりスルーされるスルーされ力は異常。つか、結婚したら本人の意識面で結構変わる部分で芸風に影響が出る面があると思うんだけれど、あの娘本当に「純情きらり」と全く同じノリで大河やってるもんなぁ。あの辺りのしなやかさを考えると、小田嶋センセイ的見解も有り得なくはないか、とちょっと思ったりはしてしまうのだけれど、その辺りは、まぁ。
トラバスパム消した勢いで一部普通のトラバも消してしまい(挨拶。
ぶくま字余り補完系エントリ。
◆オタクは弱者?@メカAG
ただ、現在の状況と言うと、結局オタクが産業的に広がっていてコミュニティも昔よりもよほど規模が大きくなってる一方で、世間の認知度が昭和とさして変わらないとすれば、それはある程度オタク側で認知的不協和というか、「何か政治的に不当に扱われている」みたいな思いが出てくるとしてもそう驚きではないのかもしれません。例えば、今時大概なエリート青年実業家(笑)みたいな人でも子どもの頃はファミコンやってて、「こっち側」のカルチャーに十分入り込んでた訳です。それなのに、ちょっと「それ」への情熱が強くて長く続いていたのに何で俺だけが、みたいな意識みたいなのもまぁあって不思議ではないと言えばそうだろう、とも。
ただ、ちょっと視点を変えて思うに、例えばDQNのカルチャーなんかはある程度層があってなおかつ漫画などでも決してネガティヴには描かれなかったりする反面、あれはサブカルチャーであり続ける訳です。それは、彼らのカルチャーが「イリーガルな部分」に依拠するから。その上で、オタカルチャーが果たしてそういう「イリーガルな部分」に全く依拠しないかというとそれはそれで疑問。まぁ、当然大概のオタクは軽犯罪ないしそれに類する範囲を除いては重い罪を自分の趣味範囲で行ってはいないはずだけれど、カルチャーとしてどうしてもオタカルチャーは性的なカルチャーとの接点は存在するものであり、少なくともそのイメージは持たれている、と考えないといけない。ならば、「本当の意味で」オタクが世の中に対して「市民権」的なものを持とうとするならば、ある程度自らの遵法精神を強調するような活動をしていく必要はあるのかな、みたいなことは思う。
で、そのモデルとしては、日本中央競馬会ってのがありましてな、というお話。要するに彼らが行ったキャンペーンってのは、競馬ってのはバクチではなくて娯楽である、みたいな側面を昭和の半ばくらいからずっと続けてきたわけ。で、その彼らの営業努力ってのは報われ、競馬というスポーツは平成の入り口辺りに至って、ある程度まで市民権を得た趣味ジャンルとなりました。ただ、そういった中でよく言われるのは「鉄火場の雰囲気が失われた」、みたいなのがあるんですね。要するに、「ジャンルとしての『濃さ』」みたいなのがやや損なわれた面がある、と。オタカルチャーもオタクやコンテンツ提供側の努力によって、やがては市民権を得るかもしれないけれども、或いは「タダで」その地位が得られるかというと、その可能性は低いかも知れません。要するに、その頃のオタカルチャーは、多分今現在我々が愉しんでる「濃さ」はないかもよ、と。その辺りは、若いオタク層にはちと肝に銘じて欲しい気がしますね。
ま、個人的には「オタク=犯罪者ではない」みたいなことは言い続けたいとは思うけれども、少々キモいと思われるくらいは褒め言葉と思う意識は必要かもよ、とも。
ぶくま字余り補完系エントリ。
◆オタクは弱者?@メカAG
ちょっと前にオタク文化論といったオタクを肯定する流れが盛り上がったが、それが出発点なのだろうか。オタクを肯定するのは大賛成だが、何もいきり立って世間の「偏見」に反発したりそれを取り除こうとする必要はないんじゃないのかな。俺のこの考え自体が古いのだろうか。この辺り、結構典型的なオタク世代論的な話になってしまうのだけれど、古来のオタクってのはある種の道楽者気取りみたいな部分は確実にあったというか、「フハハハ、愚民に俺様のことなど分からぬ」的歪んだエリート主義はあった気がしています。また逆に、ある程度「人が知らないことを知る」「人が手を出さない趣味を持つ」みたいなのがある種の自慢である、みたいな。そういう非常にテンプレート的な世代論に従うならば、昔のオタクは世間にキモいとある程度思われるくらいが丁度良い、みたいなのを体感的には持っていたんではないでしょうか。勿論、それで喰えるレベルにまで趣味が嵩じてしまうと、ある程度読者というかフォロワーを養わないといけない、みたいな部分で世間にある程度阿っても自分の領域の知名度を世に高めるみたいなプロセスも必要にはなってくるのでしょうけれど。
ただ、現在の状況と言うと、結局オタクが産業的に広がっていてコミュニティも昔よりもよほど規模が大きくなってる一方で、世間の認知度が昭和とさして変わらないとすれば、それはある程度オタク側で認知的不協和というか、「何か政治的に不当に扱われている」みたいな思いが出てくるとしてもそう驚きではないのかもしれません。例えば、今時大概なエリート青年実業家(笑)みたいな人でも子どもの頃はファミコンやってて、「こっち側」のカルチャーに十分入り込んでた訳です。それなのに、ちょっと「それ」への情熱が強くて長く続いていたのに何で俺だけが、みたいな意識みたいなのもまぁあって不思議ではないと言えばそうだろう、とも。
ただ、ちょっと視点を変えて思うに、例えばDQNのカルチャーなんかはある程度層があってなおかつ漫画などでも決してネガティヴには描かれなかったりする反面、あれはサブカルチャーであり続ける訳です。それは、彼らのカルチャーが「イリーガルな部分」に依拠するから。その上で、オタカルチャーが果たしてそういう「イリーガルな部分」に全く依拠しないかというとそれはそれで疑問。まぁ、当然大概のオタクは軽犯罪ないしそれに類する範囲を除いては重い罪を自分の趣味範囲で行ってはいないはずだけれど、カルチャーとしてどうしてもオタカルチャーは性的なカルチャーとの接点は存在するものであり、少なくともそのイメージは持たれている、と考えないといけない。ならば、「本当の意味で」オタクが世の中に対して「市民権」的なものを持とうとするならば、ある程度自らの遵法精神を強調するような活動をしていく必要はあるのかな、みたいなことは思う。
で、そのモデルとしては、日本中央競馬会ってのがありましてな、というお話。要するに彼らが行ったキャンペーンってのは、競馬ってのはバクチではなくて娯楽である、みたいな側面を昭和の半ばくらいからずっと続けてきたわけ。で、その彼らの営業努力ってのは報われ、競馬というスポーツは平成の入り口辺りに至って、ある程度まで市民権を得た趣味ジャンルとなりました。ただ、そういった中でよく言われるのは「鉄火場の雰囲気が失われた」、みたいなのがあるんですね。要するに、「ジャンルとしての『濃さ』」みたいなのがやや損なわれた面がある、と。オタカルチャーもオタクやコンテンツ提供側の努力によって、やがては市民権を得るかもしれないけれども、或いは「タダで」その地位が得られるかというと、その可能性は低いかも知れません。要するに、その頃のオタカルチャーは、多分今現在我々が愉しんでる「濃さ」はないかもよ、と。その辺りは、若いオタク層にはちと肝に銘じて欲しい気がしますね。
ま、個人的には「オタク=犯罪者ではない」みたいなことは言い続けたいとは思うけれども、少々キモいと思われるくらいは褒め言葉と思う意識は必要かもよ、とも。
標題は単なる語呂で選んでるだけです(挨拶。
ここんところの死刑談義などを見ていて、何となく「復讐権」みたいなものが気になっていたりします。まぁある意味、穂積陳重的なレベルの議論ってのは現代にあって聊か古典的過ぎるかなぁと思われますが、ある程度この問題に関するスタンスの背景としてこのパラダイムは根本的な部分を握るのではないか、とは思われるだけに。
基本的に、確かに国家が刑罰を管理するのは「私権としての復讐権を振りかざす人が出てきたら困る」というのが結構大きい部分を占めるのではないか、とは思われます。要するに、復讐はその本質として連鎖性が強いので、世にあるコミュニティとしては復讐権を表向きな自然権として是認しがたい部分はあるのですが、仮に法的に復讐権を拒否したところで、輿論が「自力救済」としての暴力を支持する蓋然性は常に一定以上あると考えられ、その場合のコミュニティの維持は結構大変な作業になるだろう、と。要するに、殺人を罰することによるコミュニティの道徳って中には、「殺してはいけない」という価値観の実現とか、罰則による抑止力とかよりは、「道義的に正当と認められる余地のある犯罪」の予防ってのが結構重要な位置を占めるのだと思われます。
で、その意味では、「復讐権の復活」というのはぶっちゃけ国家の法治の否定だよね、というお話になる辺りがあって、比較的夜警国家的な側面を重視する保守側でもこの手の議論をする手合いがある辺りは、不思議と言えば不思議な感じはあります。ともあれ、国家による「復讐の代行」は、結局のところ「汚れてもいい手」で刑罰を行うことで、報復合戦の芽を摘む、ということではあるのでしょう。言わば、個人の手を復讐の血に染めるくらいならば、それを共同体に委ねるほうがナンボかマシ、みたいな。
ここで、復讐そのものを野蛮と言うのは、ある意味韓国人に犬を食うなとかインド人に牛も食えと言うようなものではあるでしょう。個人的には、人類の進歩が「復讐の連鎖を食い止める知恵」を洗練させることはあっても、「復讐したいという人間の感情」そのものを相克するものであるとはあんまり思ってません。まぁ俺が重力に魂を曳かれたオールドタイプだからかも知れませんが。それと、現世が一度きりであとは最後の審判に任されるキリスト/イスラム的な文化においては「この世で裁かれなくてもいずれ神が裁いてくれる」という宗教的な文脈での救済の余地が用意される一方で、死後の世界を想定しない儒教圏や、現世が一度きりでない(=神が罪人を「永遠に地獄に落としてくれない」)仏教圏的な価値観上は、そのような形而上の抑制機構が存在しない訳で、西洋の人間のパラダイムと同様に日本人がやれると考えるのもまた難しくはあるのでしょう(これは、アジアにおける隣国との戦後補償問題みたいな文脈にも現れてくる問題ではあろうかと)。
その意味では、例えば光市の件とかで、被害者遺族側の感情そのものに対してネガティヴな反応を示した上で議論しても、得られるものは少ないんじゃないかとは思ったりします。むしろ、「知恵」の方をどうやって洗練させるかのテクニカルな文脈として死刑を廃止すべきかどうか、って議論はあるのでしょう、と。その意味では、「国が人を殺していいのか」的な大上段すぎる文脈での死刑廃止論も自分には「復讐権」と同じくらいには感情的な議論に見えたり見えなかったり。その上で、例えば「実際に死刑にしたところで死んだ被害者は帰ってこない以上余り遺族の慰みにはならない」だとか「はじめから死刑廃止、ってことで決めておけば被害者側も諦めが付くもんでしょ」的な議論に関して、現実にどれくらいそういうものなのか(或いは字面の刑罰のウラで実態としてどのような補償や被害者救済が行われているか)とかに関して、そこそこ巧く行ってる事例をケーススタディしてみる、みたいな姿勢がこの手の議論では大事なのかなぁと。
いずれにしても、復讐権というか復讐心みたいなものを考慮するならば、死刑の廃止ってのは、そういう被害者の救済が可能な方策を第一義に考えたり、或いは人権に関するパラダイムというか文化に関しての変化を浜の真砂を数えるくらいの根気で取り組んでいくものであり、ウワモノだけを先行して変えていっても、自力救済ムードな輿論をいたずらに強めて司法への不信を増大させる結果に終わるリスクは多分にあるものでしょうな。
因みに、それでも死刑を廃止するとするならば、無期刑の扱いの中に部分的な復讐権というか、擬似的な被害者による自力救済要素を移行措置的に盛り込めばいいのかなぁと思っていたり。要するに、無期刑のような場合には、被害者など一定のステークスホルダーを決めておき(まぁ外患誘致とかの政治事犯だと国そのものがステークスホルダーとなるでしょうから、やや扱いがデリケートになるかも知れませんが……)、そのステークスホルダーが全員一致で認めれば仮釈放とする、みたいな。これならば、例えば連続殺人などでステークスホルダーが増えれば増えるほど、仮釈放の蓋然性は低くなるという話にはなるでしょうし、ある種の生殺与奪件を付与することで、ある意味死刑とは違う意味で「復讐欲」を満足させるものとはなるんではないかな、と。まぁ勿論、罪刑法定主義とは真っ向から対立するものではあったりするんで、なかなか難しい問題ではありますが。
◆ところで。
こういうことを考えてるのは無論光市の一件(に対するネットの反応とか)がきっかけなのだけれど、あの事件そのものへの関心は限定的。つーか、弁護士が全身全霊をかけて被告の減刑を目指すのは職務としては全く正当なんですが、仮に差し戻し審で新たに弁護側から出されたストーリーが「本当に加害者が経験したもの」ではなく、弁護側ででっち上げたものであれば、それは弁護士を「法匪」と呼んで差し支えないものかと。で、本来は前者であることを大前提に(=弁護士の善意と職業意識を信用して)この手の議論はされるべきではあるのですけれど、事の経緯から見て後者の確率が物凄〜く高く見えてしまっている以上、まぁねぇ……みたいな部分はあるか。弁護士批判してる人の根本的な思いは「あんなヤツに弁護の余地などない!」ではなく、「I want the Truth!」に近い気がします。
ここんところの死刑談義などを見ていて、何となく「復讐権」みたいなものが気になっていたりします。まぁある意味、穂積陳重的なレベルの議論ってのは現代にあって聊か古典的過ぎるかなぁと思われますが、ある程度この問題に関するスタンスの背景としてこのパラダイムは根本的な部分を握るのではないか、とは思われるだけに。
基本的に、確かに国家が刑罰を管理するのは「私権としての復讐権を振りかざす人が出てきたら困る」というのが結構大きい部分を占めるのではないか、とは思われます。要するに、復讐はその本質として連鎖性が強いので、世にあるコミュニティとしては復讐権を表向きな自然権として是認しがたい部分はあるのですが、仮に法的に復讐権を拒否したところで、輿論が「自力救済」としての暴力を支持する蓋然性は常に一定以上あると考えられ、その場合のコミュニティの維持は結構大変な作業になるだろう、と。要するに、殺人を罰することによるコミュニティの道徳って中には、「殺してはいけない」という価値観の実現とか、罰則による抑止力とかよりは、「道義的に正当と認められる余地のある犯罪」の予防ってのが結構重要な位置を占めるのだと思われます。
で、その意味では、「復讐権の復活」というのはぶっちゃけ国家の法治の否定だよね、というお話になる辺りがあって、比較的夜警国家的な側面を重視する保守側でもこの手の議論をする手合いがある辺りは、不思議と言えば不思議な感じはあります。ともあれ、国家による「復讐の代行」は、結局のところ「汚れてもいい手」で刑罰を行うことで、報復合戦の芽を摘む、ということではあるのでしょう。言わば、個人の手を復讐の血に染めるくらいならば、それを共同体に委ねるほうがナンボかマシ、みたいな。
ここで、復讐そのものを野蛮と言うのは、ある意味韓国人に犬を食うなとかインド人に牛も食えと言うようなものではあるでしょう。個人的には、人類の進歩が「復讐の連鎖を食い止める知恵」を洗練させることはあっても、「復讐したいという人間の感情」そのものを相克するものであるとはあんまり思ってません。まぁ俺が重力に魂を曳かれたオールドタイプだからかも知れませんが。それと、現世が一度きりであとは最後の審判に任されるキリスト/イスラム的な文化においては「この世で裁かれなくてもいずれ神が裁いてくれる」という宗教的な文脈での救済の余地が用意される一方で、死後の世界を想定しない儒教圏や、現世が一度きりでない(=神が罪人を「永遠に地獄に落としてくれない」)仏教圏的な価値観上は、そのような形而上の抑制機構が存在しない訳で、西洋の人間のパラダイムと同様に日本人がやれると考えるのもまた難しくはあるのでしょう(これは、アジアにおける隣国との戦後補償問題みたいな文脈にも現れてくる問題ではあろうかと)。
その意味では、例えば光市の件とかで、被害者遺族側の感情そのものに対してネガティヴな反応を示した上で議論しても、得られるものは少ないんじゃないかとは思ったりします。むしろ、「知恵」の方をどうやって洗練させるかのテクニカルな文脈として死刑を廃止すべきかどうか、って議論はあるのでしょう、と。その意味では、「国が人を殺していいのか」的な大上段すぎる文脈での死刑廃止論も自分には「復讐権」と同じくらいには感情的な議論に見えたり見えなかったり。その上で、例えば「実際に死刑にしたところで死んだ被害者は帰ってこない以上余り遺族の慰みにはならない」だとか「はじめから死刑廃止、ってことで決めておけば被害者側も諦めが付くもんでしょ」的な議論に関して、現実にどれくらいそういうものなのか(或いは字面の刑罰のウラで実態としてどのような補償や被害者救済が行われているか)とかに関して、そこそこ巧く行ってる事例をケーススタディしてみる、みたいな姿勢がこの手の議論では大事なのかなぁと。
いずれにしても、復讐権というか復讐心みたいなものを考慮するならば、死刑の廃止ってのは、そういう被害者の救済が可能な方策を第一義に考えたり、或いは人権に関するパラダイムというか文化に関しての変化を浜の真砂を数えるくらいの根気で取り組んでいくものであり、ウワモノだけを先行して変えていっても、自力救済ムードな輿論をいたずらに強めて司法への不信を増大させる結果に終わるリスクは多分にあるものでしょうな。
因みに、それでも死刑を廃止するとするならば、無期刑の扱いの中に部分的な復讐権というか、擬似的な被害者による自力救済要素を移行措置的に盛り込めばいいのかなぁと思っていたり。要するに、無期刑のような場合には、被害者など一定のステークスホルダーを決めておき(まぁ外患誘致とかの政治事犯だと国そのものがステークスホルダーとなるでしょうから、やや扱いがデリケートになるかも知れませんが……)、そのステークスホルダーが全員一致で認めれば仮釈放とする、みたいな。これならば、例えば連続殺人などでステークスホルダーが増えれば増えるほど、仮釈放の蓋然性は低くなるという話にはなるでしょうし、ある種の生殺与奪件を付与することで、ある意味死刑とは違う意味で「復讐欲」を満足させるものとはなるんではないかな、と。まぁ勿論、罪刑法定主義とは真っ向から対立するものではあったりするんで、なかなか難しい問題ではありますが。
◆ところで。
こういうことを考えてるのは無論光市の一件(に対するネットの反応とか)がきっかけなのだけれど、あの事件そのものへの関心は限定的。つーか、弁護士が全身全霊をかけて被告の減刑を目指すのは職務としては全く正当なんですが、仮に差し戻し審で新たに弁護側から出されたストーリーが「本当に加害者が経験したもの」ではなく、弁護側ででっち上げたものであれば、それは弁護士を「法匪」と呼んで差し支えないものかと。で、本来は前者であることを大前提に(=弁護士の善意と職業意識を信用して)この手の議論はされるべきではあるのですけれど、事の経緯から見て後者の確率が物凄〜く高く見えてしまっている以上、まぁねぇ……みたいな部分はあるか。弁護士批判してる人の根本的な思いは「あんなヤツに弁護の余地などない!」ではなく、「I want the Truth!」に近い気がします。
◆安倍首相辞任表明に思うこと@green
id:Mr_Rancelot氏の※に書こうと思ったけれど、長くなりそうな悪寒があったのでトラバ。
基本的に、安倍の辞任の「不合理性」については、安倍なりには合理的な根拠はあったと思う。要するに、彼は「選挙の敗北」とか「任命責任」のような、ティピカルな理由で職を辞したくはなかったのだろう、というのはあった。要するに、彼自身が政治史において「ティピカルな辞め方をした総理大臣」になりたくはなかったという矜持のようなものがあったのだろう(それは近衛の孫も似たようなもんだったんではと思う)。また政権党の今後の宰相のために「選挙の敗北」や「任命責任」ごときで辞める、という前例を作りたくなかった、みたいな部分はあったかも知れず、それならそれで一定の評価には値する。
ただ、それならそれで、施政方針演説の直後に辞める必要はなかった訳で、仮に「小沢が対談に応じてくれなかった」のが最後の一突きになったとしても、その後に入院してしまうという文脈も含めてプチ鬱っぽい文脈に見えてしまう部分はどうしてもある。実際、自分から見て安倍が自身の矜持を維持しつつ辞めるとすれば今年の終わりが最も適切であり、少なくとも麻生や与謝野は普通にその合理的な幕引きを全身全霊で演出しようとしてたとは思う。そういった周りの努力を放り投げるのも、鬱的と言えばそうではあるし。その辺りで、朝青龍と被る面はあるのだろう。これについて爛素郎さんは「なんつー奴隷根性だ」と呆れておられるが、実際問題として輿論の多数派においては「いじめ」的な印象を持っていても「いじめられてる」から「かわいそう」という文脈になってないのがやや感覚的に単なる「いじめ」的な取り方の文脈と異なる部分ではとも思う。
一方、宰相としての安倍への評価ってのは、やや複雑なものになる気はする。というのは、単に「やれるだけのことをやる」という意味では、安倍はもう先の通常国会でそれだけのものをほぼ「やってしまった」ようにも見える部分があって。例えば、教育基本法の改正や国民投票法の成立などもそうであるが、それの是非はともかく、結構大きな、というか長期的な影響を持ちそうな法案を通している、みたいな。で、これらの法律について「安倍はダメな奴だったから、元に戻そうぜ」的な機運はどうも上がっていないようにも思われる面はある。勿論、それは大なり小なり小泉の獲得した議席と小泉のスターシステムが継続した文脈からスタートした優位を浪費したものにすぎないけれども、結構通常国会だけで「本当にダメな政治家」ならば空中分解しそうな辺りを押し切った部分はこの宰相の評価すべき点にはなるのだろう。
反面、かんべえ氏が参院選の際に触れたように、そういった「長期的」な影響力の改革が「抽象的」なものである一方で、国民が求めているものは「具体的」なものであったには違いなく、ある程度「具体的」の面で国民にアメを与えることができなかったのが、安倍に足りない部分であり、逆に言えばそこで「説明ができる程度のもの」を出せたならば、スキャンダルへの喰い付き自体がもっと低いものになり、自ずと魔女狩り的な構図は免れられたのでは、とも。要するに、メディアの安倍叩きも「それで売れたから」的な面はあったかなと思われる。まぁそれをおいてもそういう状況への対処能力が全然足りなかったことを否定するものではないですが。
しかし、ここで前段に戻って思うのは、
「政治家がなってはいけない病気は二つある。それは、鬱とボケである」
ってことである。誰が言ったかは知らんが、少なくとも自分はそう思っている。そして、基本的にほとんどの政治家は鬱にならなければボケにもならない。レーガン?あれだけの高齢で引退して何年も経ってからの話であれば、除外してあげてもいいでしょう。そういう意味では、自分の中では、政治家として育てられていたけれども、何処か本質的に総理以前に政治家の器でなかったってことかなぁとは思われます。その意味では、「短命政権が多すぎることを嘆く」ことの正当性を認めつつも、安倍が早く辞めたのはよかったのだろうという点で、爛素郎さんに同意かな。
id:Mr_Rancelot氏の※に書こうと思ったけれど、長くなりそうな悪寒があったのでトラバ。
基本的に、安倍の辞任の「不合理性」については、安倍なりには合理的な根拠はあったと思う。要するに、彼は「選挙の敗北」とか「任命責任」のような、ティピカルな理由で職を辞したくはなかったのだろう、というのはあった。要するに、彼自身が政治史において「ティピカルな辞め方をした総理大臣」になりたくはなかったという矜持のようなものがあったのだろう(それは近衛の孫も似たようなもんだったんではと思う)。また政権党の今後の宰相のために「選挙の敗北」や「任命責任」ごときで辞める、という前例を作りたくなかった、みたいな部分はあったかも知れず、それならそれで一定の評価には値する。
ただ、それならそれで、施政方針演説の直後に辞める必要はなかった訳で、仮に「小沢が対談に応じてくれなかった」のが最後の一突きになったとしても、その後に入院してしまうという文脈も含めてプチ鬱っぽい文脈に見えてしまう部分はどうしてもある。実際、自分から見て安倍が自身の矜持を維持しつつ辞めるとすれば今年の終わりが最も適切であり、少なくとも麻生や与謝野は普通にその合理的な幕引きを全身全霊で演出しようとしてたとは思う。そういった周りの努力を放り投げるのも、鬱的と言えばそうではあるし。その辺りで、朝青龍と被る面はあるのだろう。これについて爛素郎さんは「なんつー奴隷根性だ」と呆れておられるが、実際問題として輿論の多数派においては「いじめ」的な印象を持っていても「いじめられてる」から「かわいそう」という文脈になってないのがやや感覚的に単なる「いじめ」的な取り方の文脈と異なる部分ではとも思う。
一方、宰相としての安倍への評価ってのは、やや複雑なものになる気はする。というのは、単に「やれるだけのことをやる」という意味では、安倍はもう先の通常国会でそれだけのものをほぼ「やってしまった」ようにも見える部分があって。例えば、教育基本法の改正や国民投票法の成立などもそうであるが、それの是非はともかく、結構大きな、というか長期的な影響を持ちそうな法案を通している、みたいな。で、これらの法律について「安倍はダメな奴だったから、元に戻そうぜ」的な機運はどうも上がっていないようにも思われる面はある。勿論、それは大なり小なり小泉の獲得した議席と小泉のスターシステムが継続した文脈からスタートした優位を浪費したものにすぎないけれども、結構通常国会だけで「本当にダメな政治家」ならば空中分解しそうな辺りを押し切った部分はこの宰相の評価すべき点にはなるのだろう。
反面、かんべえ氏が参院選の際に触れたように、そういった「長期的」な影響力の改革が「抽象的」なものである一方で、国民が求めているものは「具体的」なものであったには違いなく、ある程度「具体的」の面で国民にアメを与えることができなかったのが、安倍に足りない部分であり、逆に言えばそこで「説明ができる程度のもの」を出せたならば、スキャンダルへの喰い付き自体がもっと低いものになり、自ずと魔女狩り的な構図は免れられたのでは、とも。要するに、メディアの安倍叩きも「それで売れたから」的な面はあったかなと思われる。まぁそれをおいてもそういう状況への対処能力が全然足りなかったことを否定するものではないですが。
しかし、ここで前段に戻って思うのは、
「政治家がなってはいけない病気は二つある。それは、鬱とボケである」
ってことである。誰が言ったかは知らんが、少なくとも自分はそう思っている。そして、基本的にほとんどの政治家は鬱にならなければボケにもならない。レーガン?あれだけの高齢で引退して何年も経ってからの話であれば、除外してあげてもいいでしょう。そういう意味では、自分の中では、政治家として育てられていたけれども、何処か本質的に総理以前に政治家の器でなかったってことかなぁとは思われます。その意味では、「短命政権が多すぎることを嘆く」ことの正当性を認めつつも、安倍が早く辞めたのはよかったのだろうという点で、爛素郎さんに同意かな。

