有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、或いは反逆のドゥ・ロワイユ=デュプレ。
八月革命説の文脈に関して。
 ブログネタの棚卸しというか。
 8月くらいに書こうと思ってお蔵入りになっていたものを、来年まで待つのもナニなので、今のうちに出しておこうという感じで、時期ハズレながらも8月革命説雑感。これに関しては、結局ポツダム宣言をどう読み解くかの問題なので、やはりまずはポツダム宣言に対する当時の両側の解釈という点で重要な、ポツダム宣言への回答に関する応酬辺りを見てみるのが良いのでしょう。Blockquoteした文書のソースはたぶんぐぐれば国立公文書館のサイトとかで出てくる範囲のものなんで、URLはリンクしませんが、どぞということで、こちらが帝国政府側の回答。
帝国政府ハ一九四五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ米、英、支三国政府首脳者ニ依リ発表セラレ爾後「ソ」聯政府ノ参加ヲ見タル共同宣言ニ挙ケラレタル条件ヲ右宣言ハ 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス
帝国政府ハ右了解ニシテ誤リナキヲ信シ本件ニ関スル明確ナル意向カ速ニ表示セラレンコトヲ切望ス
 そして、それに対する回答である所謂「バーンズ回答」は以下の通り。
With regard to The Japanese Government's message accepting the terms of The Potsdam Proclamation but containing the statement - with the understanding that the said declaration does not comprise any demand which prejudices the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler - Our position is as follows :
From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
The Emperor will be required to authorize and ensure the signature by the Government of Japan and the Japanese Imperial General Headquarters of the surrender terms necessary to carry out the provisions of the Potsdam Declaration and shall issue his commands to all the Japanese military naval and air authorities and to all the forces under their control wherever located to cease active operations and to surrender their arms and to issue such other orders as the Supreme Commander may require to give effect to the surrender terms. Immediately upon the surrender the Japanese Government shall transport prisoners of war and civilian internees to places of safety as directed where they can quickly be placed aboard allied transports.
The ultimate form of Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people. The armed forces of the Allied Powers will remain in Japan until the purposes set forth in the Potsdam Declaration are achieved.

 いずれも、強調は有芝によります。

 後者は俗に言う連合国総司令官(SCAP)による「Subject to」問題が喧しいところではありますが、実体としては次の段落の方が大事なように思われます。すなわち、そこでは凡そのところ「天皇は降伏にあたって政府を代表すること」がうたわれています。これは、機能としては天皇が内閣の輔弼を受けて主権を実行するのとある意味そう変わりが無いものと見受けられます。ただ、「輔弼」が言わば下からの要請であるのに対し、「Subject to」のもとSCAPが行う占領政策が上からの要請である、という違いだけで。その上で、ではこの段階でSCAPが「主権者」かと言えばそれはややニュアンス的にズレるとは思われます。占領軍はあくまで占領軍として日本の国の外部にあるわけで、仮にSCAPが日本の主権を占領によって行使したとしても、イコール彼らが「日本の主権者」という法的な位置にあるとするのはやや強引な解釈ではないのでしょうか。しかも、ご丁寧に彼らは従来の主権者を占領後も維持して、その機能を利用することを明記しているのですから。
 その意味では、バーンズ回答によって補強されるところのポツダム宣言は結局のところ、即時的な国家の主権者の移動を担保するものではないのでしょう。

 ただ、降伏後の措置としてこの回答は最後の段落にあるように「究極的な日本の政体は、ポ宣言の通り、日本国民の自由意志に合致したものであるべき」と日本への注文をつけています。これは、詰まるところバーンズ、ひいては連合国……てよりはアメリカが「限界説」を否定しているってことなのでしょう。要するに、判断の主体が「国民」である以上、当然これは「国民主権」を念頭においたものなのですから、仮に「限界説」に立つと、これは既に憲法の範囲を逸脱した要求となります。一方で、この要求自体は「主権の移動」をある意味可能とする一方でそれを恒久化することを明示してはいないのですよね。実際、国体維持を巡る終戦の御前会議においては「Subject to」は議論になっても、この「究極的な日本の政体」は議論の対象とはなりませんでした。この辺り、アメリカもやや姿勢として一歩引く部分は見受けられるとは思われます。この辺りはアメリカらしい部分ではあるかな。
 実際のところ、「限界説」を認めた上で「外患による革命」という文脈での革命説を正当化することは、例えばヴィシー・フランスにおいて実際に合法的に採用された「ペタン元帥が主権者である」だけで完結するようなふざけた憲法までもが「革命説」において正統化されるような危険性があるように思われ、その意味では限界説にとっての自縄自縛というか自殺的な面があるような気がしなくもありません。

 一方で、仮に明治憲法が「限界説」に従うとする立場に立ったとしても、明治憲法は詔勅について国務大臣の副署は定めていても憲法の詔勅に対する優位性をうたっていないので、ある意味、限界説の抜け穴が存在しているように見えます。その上で、俗に昭和天皇の「人間宣言」として知られる昭和二十一年一月一日の詔書において、先帝は五箇條の御誓文を根拠として
舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、獲樓乾ニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ。
と下令しており、言わばこの宣言によって改憲を含む一連の改革をオーサライズしている面はあるようには思われます。少なくとも昭和天皇自身がこの詔書について後に「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。」述懐している辺りには、もっと注目されるべきなのでしょう。有芝は無学なので、法理として五箇條の御誓文が明治憲法に対してどのような上下関係にあるかは定かではありませぬが、管見では立憲政体の詔書が明治憲法の要件定義書として存在するので、そこで
朕今誓文ノ意ヲ拡充シ茲ニ元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審制ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ汝衆庶ト倶ニ其慶ニ頼ラント欲ス
とされているのならば、御誓文は実質憲法の母体とは言えるでしょう。また少なくとも昭和天皇は「明治憲法の上位」にこれを掲げることで、改憲を含めた国家の改革について「限界説」的なものに対するフリーハンド=「舊來ノ陋習」に対する無制限的な改変の許可を与えたように思われます。その意味では、明治憲法自体が「無限説」的な基礎の上に「有限説」をおいていたという意味で矛盾を抱えていた、ということなのでしょうし、その矛盾によって逆に日本国憲法の正統性が保証される面はあるのかな、と。
Wikiscannerの宮内庁Editを淡々と見物するよ。
 Wikiscanner の話題は一通り出た後に一週遅れで朝日新聞が取り上げた辺りでまたはてブなどでも上がってるけれど、個人的に歴史ヲタとしては宮内庁の職員がどんなEditをしてたのかが興味あるよなぁ、みたいな部分はあったので、遅ればせながらではあるが件のリンクを見てその仕事ぶりを確認してみよう、という企画。因みに、このEdit自体は2006年の4月くらいまでのもので、結構実は前の話っぽい。では、個別の編集を淡々と見ていく方向で。

箸墓古墳
 「300mに迫る規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点など、それまでの墳墓とは明らかに一線を画している。」なんて辺りはやや思い入れが反映している部分はあるような気がするが、基本的には研究の業績を客観的に紹介している感がある。「学術的な調査は困難」を消しているが、現実に調査や研究は盛んに行われている古墳なので、まぁ、とは思われるし。

都城
 九州王朝説なくだりの削除。まぁ九州王朝がトンデモという前提に立てば正当。

長安
 九州王朝説なくだりの削除。まぁ九州王朝がトンデモという前提に立てば正当。

藤原京
 九州王朝説なくだりの削除。まぁ九州王朝がトンデモという前提に立てば正当。

前方後円墳
 2回目のEditでは、概要説明をやや具体化しているという趣。まぁやや主観っぽくもあるといえばあるけれど、基本的にそういうもんだよね的な内容のEditではあると思われ。築造方位に関してRevertしてるのは、まぁ余りWikipediaにはそぐわない「自分の研究報告」的な側面の強い内容かと思われるし、文体も雑駁なだけに、決して不当とは言えないかなと。1回目のEditは単なる一般的な「古墳」の項目への移動なので、Revertというほどではない。

古墳
 上にも書いたような記述の移動や誤記の修正以外では、これも概要説明をちょっとだけ加えただけ。まぁ普通の編集だよね。

四神相応
 これも大宰府がらみのアレではあるが、基本的には4回目のEditを見る感じだと大宰府の四神相応を否定まではせず(そして、それは恐らく百済辺りの影響であることにことわりを入れた上で)、議論の整理をしている、みたいな感じ。つーか、九州王朝云々の議論よりは、雑駁な記述を整理してるだけかなとも。

土葬
 このEditはよい豆知識。

埴輪
 これに関しては、最初のEditが興味深くはあるか。やや畿内中心史観の影響が見えるEditではあるが、一応ある程度埴輪の成立史を補足した上でのコメントになっているので、さほど無茶な政治性とも思われない。実際「吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したこと」との記述は削除していないし。ただ、この辺りは諸説議論がありそうな気がするので、対論的なものが併記されるような補足を他の人が加えてると良いかな、みたいな感覚も。

大宰府
 最もEdit回数が多い。多分この人の関心分野としての優先順位が高かったのであろう。まぁ後半は微妙に編集合戦っぽくなってる辺りに顔を突っ込んだ感はあったか。ただ、例えばこの辺りのEditにおける条坊制のくだりなんかを見てると、自分の書き込みに対して如何にもWikipediaらしい雑駁なEditを受けながらも、うまいことアカデミックな側面から補足して膨らませている部分もあって、相応の学識は感じられる。まぁ、役所の都合でどうこうって印象でもなく、むしろヲタ臭の方が強いようにも。

大仙陵古墳
 この辺りはまぁ宮内庁らしい関心範囲ではあろうか。名前も何度かリネームされてるようで、なかなかキャッチーなトピックではあったのも事実っぽい。最初のEdit辺りで概ねこの職員の立ち位置は窺えるなぁと思うのですが、ここで言及されているボストン博物館の伝大山陵出土の出土品に関する議論とかは当方ポインタを持ってないので、後で調べるか誰か教えてくれ。あと実際「埴輪や宮内庁職員が採集した須恵器などの特徴から[[5世紀]]中葉に築造されたものと考えられている。」って辺りで採集してるとされてるのがどれくらいパブリックな文脈での調査でどういう論文に発表されてるか……は多分ちゃんと調べれば分かる、のかな。
 で、ここの「大仙陵古墳」になってから2つ目のEditで問題の「宮内庁が調査のための発掘を容認していない現状において、学術上からここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能」に対するRevertがあるんですけれど、これをよく見ると、ちゃんと編集の脚注のほうに「日本の古墳には墓誌がなく,例え発掘しても被葬者を確定させることは不可能」って断りは入れてるのですよね。まぁ実際墓誌がないってのは現状の通説というか、百済の武寧王なんかも例外的に墓誌があったケースなハズなんで、きっちり調査したら「墓誌がない」ことを断定も出来ない、とは思うんですが、こういうEditで叩かれてるとしたらちとかわいそう感も。
 因みに、最後のEditでは考古学的に履中陵の方が古いという、皇国史観的な意見に対するオルタナティヴな見解も入れており、この論者がガチガチな皇国史観の持ち主でないことは窺えるであろう。

 ……と、ここまで書いたら長くなったので、残りの項目は後で気が向いたら書く。(追記)つもりだったが、何か凄いのが来たので暫く中断。

◆以下、業務連絡。
 ご指摘深謝。>名無し氏。
 いやぁ、ゴルゴ31の比じゃないっすねぇ。取り敢えずトラバスパムが物凄い勢いで到達したので、この記事の※とトラバ閉じました。その勢いで氏のカキコも削除させて頂いたのでご連絡まで。
沖縄戦における民間人に関する雑考
 はてぶコメントに返事を頂いた。
 コメントにはちと長くなりそうなので、トラバにてお返事をば。

Backlash to 1984 - お返事
うーん、意図ですか。手榴弾を与えた意図はおおむね「いざというときは、これで」だったと思うのですよ。つまり意図を問うなら「アメリカ兵が民間人に暴虐を尽くすと考えたため」ということ。だからこそ、住民も「あぁ、いざというときはコレを使えってことか」と受け止めたわけでしょう。もっとも「意図はどうあれ」として、「戦陣訓の民間人への不法な適用と解釈すべき性質のものではないか」というのであれば、それはひとつの史評ということになるんじゃないでしょうか。

ただし東条英機の戦陣訓は法じゃないので不法もへったくれもないので、法でなくとも東條に巨大な精神的カリスマがあれば別ですが、たいしてありません。ですから、そこに書いてあることが切実に感じられる戦況が事実として眼前になければ、心理効果などたかがしれていたんじゃないでしょうか。「戦陣訓なぞがあったばかりに…」というのは、戦後の歴史評論家が誇大に言い過ぎのように私は思えます。作家さんは生業からして書かれたものにものすごくこだわるというのはわかるんですが、でもそれは平時の机上の上でのことでしょう。

まして、仮に戦陣訓という東條の言葉に心酔していた軍人がいたとして、艦砲射撃や火炎放射の中で、「これは本来は民間人向けではないが、是非ともここで東條さんの言葉を伝えて守らせたい」だなんて、ちょっと考えられません。というか、軍紀も崩壊するような凄惨な戦線において、紙に書いてあることの拘束力など、誇大に考えるほうが不自然だとしか思えないのですがどうでしょう。
 基本的には、例えば「手榴弾を民間人に渡す」(これは史実としておきます)ってのは、「軍事的」な文脈からはやや逸脱したものには違いないでしょう。軍事常識としては軍隊は戦場の只中で民間人守るヒマなどなく、基本的に民間人は退避させるかシカトするかいずれかとなる訳で。その上で、現場の上位から組織的(=軍事的)にそのようなことをする命令が出ていないとするなら(「ある」ことが証明されてないならば、現状こちらを史実に近いとします)、それは現場レベルの兵士・下士官将校の判断となるかと思われますが、では何故「軍事的に非合理な判断を下したか」は、その場の誰かの意図としか言いようがないのですが、その意図ってのはその場にいて判断を下した人の脳内にしか存在しないので、「『歴史』という視点で判断を下すのが非常に難しい性質を持っているなぁ」という感想が、ブクマコメントの趣旨ではあります。
 で、戦陣訓がその「意図」の中で暗黙の「組織的命令」となっていた可能性については、必ずしも100%否定は出来ないかな、とも思っております。100%肯定も出来るものではありませんが。というのは、基本的に当時の軍隊は「皇軍」の名の通り「天皇」がピラミッドの上にあることを精神的な拠り所としていたので、戦陣訓も東條の命令というよりは「陛下の命令」として受け取られていた、或いは、それに従うべきだという「空気」が守備隊内に流れていた可能性は結構あったと思われます。勿論、おっしゃる通り戦場にあっては戦場の現実が最も優先されるので、戦陣訓そのものが金科玉条になることも難しかったかなとも思われますが、この辺りはどう判断つければ良いのか難しいところではあります。
 ただそんな中で、沖縄戦で最も不幸だったのは、民間人の無防備地域への退避活動が実質的に困難であったことでしょう。人道的な徳目以前に、そもそも軍隊にとって戦場に民間人が居られると色んな意味で困るので、大体においてシンメトリーな戦闘では民間人は退避・分離といった形で保護されるものではあります。硫黄島は事前に僅かな島民を皆疎開させてますし、日本領パラオではペリリュー島に軍事拠点を集中させて民間人を分離していましたし、満洲での対ソ退却戦を見てても民間人を出来る範囲で(あくまで、出来る範囲で)退避させることに関東軍は吝かでなかったように見えますが、沖縄の場合は、あらかじめ本土に疎開させるにしても人口が多過ぎる上に、実際にも疎開船が通商破壊の対象になるような状況であり、国としてあらかじめ「地上戦をやるにあたって国民を守る」手段が閉ざされていた感があります。そのような中で民間人を「守る」判断に現地で齟齬が出たことに関しては、旧軍や国家を強ちに責めづらい面はあるかも。

 あと、元記事の※欄に出てた意見で、ちょっと思ったところを。
 沖縄人が本土人を恨むとすれば、「奴らは本土決戦しなかった」という事後の結果に拠るところが大きいと思われます。空襲だの原爆だのは確かに悲惨ですが、地上戦を民間人として経験させられた方からすれば「マシ」に見える面はどうしてもあるでしょうし。その上で、自分達だけがその役割を押し付けられた、言わば「捨石にされた」と思ったならば、本土への感情は複雑なものとならざるを得ないのでしょう。仮に沖縄において集団自決の強要といった蛮行があったにせよ無かったにせよ、沖縄が本朝にあってひとりそういう過酷な地上戦を「経験」したという史実については、歴史の記憶から決して拭い去ってはならないのだろうとは思います。
トンデモがトンデモを呼びつつ
 finalventの日記における歴史ネタにちとだけ。

聖徳太子は実在人物であることはかなり疑わしい。このあたりの日本史は根本的に疑わしい。また、白村江戦後は日本は唐のGHQ下にあった可能性もある。
 そもそも倭或いは日本が同エントリで指摘されている通り古代ルートコ(敢えて突厥とは書かん)と大差ない「化外」であるとするならば、そこに対する征伐がもしあったとすれば、それは後漢における班超、明における鄭和のごとく、本国の支援は最低限なものであり、切り取った土地は征伐者が宰領する性質のものであろう。この辺りで、百済や高句麗に対するスタンスと同一のスタンスで唐が倭に臨んだとは若干想像しづらいなと。言うなれば、郭務悰の類のコンキスタドーレスはこの地で自ら王たるべく本朝に対して向かっていた、としなければ話が通じないんでは。その上で、彼らの意図が成功していたならば、それはそれで中華史書において列伝を割いてある程度大書されるべき事跡となっただろうが(少なくとも往時の唐朝は、倭が朝鮮諸国相手に大国ヅラ出来るくらいの国だとは認識してたのだから)、それが失敗したから舊唐書もその辺りはスルーしている訳で。で、有芝の私見としては、唐朝としては劉仁軌伝にて新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會と記録される泰山封禅の儀式をもって白村江の戦後処理は終了とみてたのかなと(余談なれど、もし日本という国号がこの時期以降に成立したものだとすれば、その国号変更は、易姓革命ってよりはこの戦後処理をある程度までご破算にするトリックだった可能性はあるかもとは思う)。そして新羅がこの封禅のあとも独立を保っていたのと同様、本朝も基本的には政権を移譲してはいなかったのだろう。時間軸的にそれ以降で書紀に出てくる郭務悰やら李守真やらの動きはかなり唐からみて勝手にやってたっぽく。
 ついでに言えば、そういうGHQ的な仮説ってのは現代中華の歴史学者からは全然出てこないですよね。半島からはこの手合いがやたら湧いてくるのとは、結構対照的。この辺りは結局、向こうの蓄積した正史読みの教養からすれば、或いは常識レベルで棄却されてる仮説なんではって気も。

4. キリシタンのやっかいな問題がある。
 4の補足。
こういう⇒Kenjya_27
 てーか、逆に言えばそれだけ急速に拡張したのは「戦国の日本人が一神教を受け入れた」からってよりは、「戦国の日本人に多神教的な解釈でキリスト教を受け入れる予知を、サンフランシスコをはじめとする往時の宣教師たちが確立したため」なんでねぇの、ってのが素朴な疑問としてあり。まぁこの辺りの東洋への布教史に関して決して明るい訳ではない……つーか厨房レベルな訳だが、基本的には戦国日本におけるキリスト教って、浄土真宗(或いは一向宗)のヴァリエーションなんではってイメージも結構あって。
#「マリ阿弥陀如来さまがみてる」みたいな感じで。
 その上で、戦国期の本朝をめぐる宗教的な素地ってのは確かに一向宗にしてもやや一神教的な性格も帯びてなくはないとは思うのですが、結局は「極楽浄土」って考え方も日本人の場合には「死んだら神になる」という解釈として受け入れられているとも思われ、その意味ではユダヤ系諸教のような文脈の一神教としては決して受け入れられていなかったと考える方が穏当か。まぁでも、こういう書き方をすると、例えばゲルマン諸族などが古代から中世にかけてキリスト教を受け入れたのもある種多神教的な思考をキリスト教が受け入れた側面があるから、みたいな話にはなって、結局どこも大して変わらん、という話にはなったりする面も出てくるものなれど。
 ところで、戦国〜織豊の本朝において、和訳聖書ってのはどの程度普及してたのでしょうかね。印刷されていたって話はぐぐったら出てきたし、現実に上の引用のリンク先などに書かれてる規模で信徒がいたならば普及してても全然おかしくないけど、その辺で経典がらみの訓詁学的な部分が往時の知識人の間でどの程度進んでたかは興味があったりする。ただ、布教のテクニカルな流れとしては、グラスルート的な流れを尊重してたのかもなとは思われるが。
Nスペ大化改新…問題は微妙にそこじゃなくって。
 という訳で、見た。
 個人的には何とも微妙、というか。そもそも、大化の改新に繋がった蘇我入鹿暗殺ってのは単純に考えてクーデターであり、テロである。そういうクーデターやテロごときで体制がある程度引っくり返り、史実としてその後中大兄が実権を握って天皇の座に上り詰めたとするならば、その暗殺が起きた段階で蘇我氏のレジームが相当にグラついた状態であることを説明しないといけない、と思う。そうでなければ、普通はテロリスト自身がそう長いこと実権を握ることは出来ないし(要するに、カエサルを殺した後にあっさりやられたブルータスの道を辿る訳だ)、仮に物凄く有能で政権を維持しえたとしても、親蘇我派を潰して本当の意味で安定を得るまでに相応の時間を費したことだろう。
 その上で、もし蘇我入鹿の暗殺を中大兄が実現したとするならば、それ以前に入鹿の政策が行き詰っていたとしなければ歴史的な文脈としては誤っているが、どうもその辺りの行き詰まりに関しての言及が一切ないのはどうよ、みたいな感じで。つまり、改新が「反動」であり、それがクーデターにより実現されたとするならば、そこまでに蘇我の改革によって噴出した「矛盾」に言及しないといけない。一方で史実は、白村江(どーでもいいが、これは「はくすきのえ」か「ペクスンガン」のどちらかにすべきだろう。まぁNHKなら後者にしたがるんかな)の後に律令制の導入は普通に進んだことを示すし、それがさほどの矛盾もなく8世紀に至るまで定着したことを示す。そう考えると、そもそも律令をはじめとする唐制に倣った改革は、斉明の土木工事などによって寸断されたとは言え、全体としては国家の改革の方向性として粛々と進んでいたのではないかとも。
 個人的には、蘇我親子が一晩で滅ぼされた文脈に、やはり微妙に納得がいかない感じはある。要するに、Nスペのスタンスとしては、大化改新がなくとも「大きな政変として国家の方針を大きく変えた」ことには同意しているように思うのだけど、そもそも件のクーデター自体がどの程度の国家的なインパクトだったのかな、って方がむしろ微妙かもと。或いは、この一件自体が蘇我の家内の騒乱の結果であり(その場合、主役は石川麻呂となるのだろう)、それは往時の蘇我の実力ゆえに少なからずインパクトはあったために天皇の交代を伴ったけれど、結果としては蘇我氏が共倒れになるきっかけを作ったという程度で、少なくともその後の孝徳朝においてさほど大きな政策の変化はなかったのかもと。一方で、天孫氏レベルでは斉明対孝徳的な文脈があり、ここで斉明が重祚した辺りのほうがクーデター的ではあったのだろう。一方、この文脈で現れない中大兄が何故に大化改新の物語に主役として名を残したかというと、恐らくは日本書紀の文脈におけるヒーロー伝説として、「暗殺」とはテロではなく一瞬で勝負をつける最も美しい勝利として描かれがちであったから、ここでその役目を割り振ったって面はあったのかなと。ただ、白村江敗戦後の中大兄=天智の行動は、番組中にもあった飛鳥の強化、或いは西日本における水城の構築、更には近江遷都と実に果断であり、もし斉明没後に彼が実権を握っていたとするならば、まずはひとかどの政治家として評価せねばならんのでしょうな。
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