有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、或いは反逆のドゥ・ロワイユ=デュプレ。
古代の氏姓についての大雑把な理解。
天皇家は何ていう名字だったんでしょうか?むかしは曽我氏や物部氏みたいな名字があって、戦争に勝って日本の君主(天皇)になったから名字がなくなったと予想しますが、もとは何ていう名字だったんでしょうか?@はてなQ

 ま、そんな深い話でも無い気はするけど、結構ぶくまを見る限り関心を持ってる人が多そうなので、ログ程度に。根本的に苗字と姓と氏は違う、みたいな基礎論はウィキペでも見て頂くとして。

 とまれ、姓なんてそもそもそんな普遍的な文化ではないですよね。
 現代にあってすら、人名において名字なり姓のごときものがつくカルチャーは普遍的ではなく、有名なテロリストの人は「ラーデンの息子のウサマ」だったりしますし、欧州においても「アレクセイ・セルゲイェヴィッチ・スミルノフ」みたいな感じでミドルネームに父の名前を冠したりするロシアにはその残滓が残ってたり、「ホセ・オルテガ・イ・ガセ」のように父と母の名字を名乗るスペインみたいなのもちょい変り種としてあったり。

 で、古代における本朝ではどうだったか、と言うと、もともと姓がなかったってのが妥当な見方と思われる。この手の系図資料として最古のものは当然ながら稲荷山の鉄剣な訳ですが、ここで顕彰される「ヲワケの臣」とその祖先の中に、氏族名を記すような記述は存在しない。或いは、この当時のもっと上級の貴族(葛城氏など)には氏族の名前はあったかも知れないけど、その辺りは実際判然とせず、まぁ現状はこの安倍氏に近い皇別氏族が姓氏を名乗っていない以上、まぁ穏当には「なさげ」で。

 その一方、本朝にある程度以上近縁な文化として比較しうる朝鮮半島を見ると、これがまた微妙。
 確かに三国史記には新羅や百済に昔氏とか解氏とかそれっぽい氏族名が残ってるけど、なにせこの史料自体に同時代性が余りないだけに、後付で統一新羅時代に創られた姓を仮冒したようにも見えなくはない。
 その上で三国史記や或いは日本書紀をある程度オミットして金石文レベルで同時代史料を見ると、例えば「寧東大将軍百済斯麻王」と書かれた武寧王の墓誌なんかもいきなり忌み名の「斯麻」(日本書紀にもこの名は「嶋君」とある)で、姓を冠してはいないし、広開土王碑の始祖伝説などにも姓を名乗った形跡は残っていない。
 一方で、これらの王朝に関しての中華の資料は、高句麗が「高氏」、百済が「余氏」、本朝が「倭氏」を名乗ったと記録していて、これだけ見ると「何だ、半島や日本にも姓はあるんじゃん」と思わされるが、これは実態のあるものと見るべきではないだろう。これはあくまで外交上の方便として中華王朝に対して仮冒したまでで、国内的にはそういう姓を流通させることはなかった。その何よりもの証拠は8世紀の本朝に残る「百済王」という氏族で、これは白村江の敗戦後に亡命した百済王族に対して賜られた名前である。もし百済王族が日常的に「余」という姓を意識していたのならば、何故にわざわざ屋上屋を架すがよろしく新たな姓を付与する必要があったのでしょう?
 ならば、本朝が5世紀に対外的に名乗った「倭氏」や、7世紀に対外的に名乗った「阿毎(天)氏」も、どこまでの実体を持つかは怪しい部分ではあろう。強いて言えば、7世紀の木簡ないしは金石文で皇族らしき名前で「阿毎」ないし「天」を冠するような超A級史料が出土すればこの辺りは覆されるものの。

 さて、恐らく5世紀くらいまでの本朝はある程度以上、小国家(実態としては周辺の諸地域からの移民によるコロニーであろう)の寄せ集め的な文脈で築かれた、初期の北米13植民地的な連合国家であったように思われ、恐らく王権は外交的な方便として「統一国家」らしき体裁を整えるために存在した、ように思われる。この国家は邪馬台国を中心に連合していた頃に「倭」というある種の統一政体として中華のお墨付きを得て、その統一性を捨てることを遂に選ばなかった。この辺りは三国と任那に分かれて結局統一されなかった半島側諸国と対照的。
 因みに「倭」自体はもともと「楽浪海中」と言われるように半島南部というか対馬海峡周縁の海上民族を指すものだったと思われるが、丁度北米東海岸の連合国家が新大陸全体を指す「アメリカ」の名を国名に借り受けたように、元々の定義とは異なる範囲の諸族が「倭」というネーミングライツを自称したように見える。で、そのオリジナルな「倭」のうち、朝鮮半島側は離反して百済や新羅の封臣となり、一方で九州側は離反の動きを見せようとしつつも最終的には本州の王権に併呑されたっぽい……というのが継体〜欽明期、要するに6世紀前半くらいのお話。この結果として、大方の本朝のドメインがある程度集権的な確定を見て、統合化が強まったように見える。

 それに従って、史料の上にも物部や大伴、蘇我といった御馴染みの「豪族」が比較的系統的な氏族名を伴って活躍を始める。また、臣・連のようなカバネの制度も出来てきたり、といった具合で、ある程度古代的な氏族制度が完成されたようにも。恐らく、国造とかあの辺りを制定するのとほぼ同期して、賜姓のようなものが権力の機能として組み込まれたのではないか。
 或いは、継体即位などに代表される王統混乱期にあって、王統の正統性を確保する意図もあったかも知れない。これは7世紀前半の新羅において女系相続が続いた後に文武王の段階で「金春秋」といった中華風の創氏改名により氏族改革がなされた辺りにも通じる現象ではあろう。ただ、それをより古い時代に行った本朝では、王族自身が氏姓を持つことはなかった可能性が高い、というだけで。

 ただ、個人的に不思議なのは、この時期の本朝には、結構もともとの氏を持っていたであろう中華からの渡来氏族ってのもあるし、それらは6世紀のかなり後半くらいまで、要するに随の統一前夜くらいまでのレベルで流入が続いてるんですよね。隋書なんかでも遣隋使の返使が「何か中華文明を普通に保ってる地域があるけど、なんぞこれ?」みたいな記述がありますが、これなんかは100年も200年も定住してたら中華文明とは似て非なるものになるに決まってる訳で、余程新しいコロニーなのだろうなと思われ。そういう辺りの部族ってのは、7世紀後半の律令国家の枠組みの中でどういう感じで「日本化」されたんだろうか?まぁ大半は、元の氏姓を捨てて国内で伝統を持つ氏族をかたるようになったのかな、って気はしなくもないけど。
世界七帝国のカラクリを実際に検証してみた
 まぁ、ただの座学ですが。

「世界七帝国の一つ」欧米列強、徳川政権下の日本を認識@asahi.com

 この話が出てるのは18世紀後半というかまぁ大黒屋さんなのでエカチェリーナ期な訳ですが、その時期というと勿論、神聖ローマ帝国がまだ名跡を残していた時代ではある、ってのはまず頭に入れないといけないかと思われます。で、神聖ローマ帝国にしても或いはロシア帝国にしても、欧州において当時「帝国」を名乗っていた国は、それをアウグストゥスを祖とするローマの帝冠の後継者として名乗っていた、みたいな事情はありました。ただ、アウグストゥスというとやや語弊があるかもで、もちょっと言えば「キリスト教帝国としてのローマ」の後継者を名乗っていた、と言っても良いでしょう。その上で、「キリスト教帝国としてのローマ」というのは、「神の国を実現するための、地上の国」であり、そのために諸族の王侯を睥睨する存在、という理念を帯びます。まぁ宗教改革の洗練を経た18世紀にもなると、んなもん完全に建前論ではあるんですけれど、少なくとも、彼らが未だ「ローマの後継」を僭称していたというのは事実であった、と。

 で、思うんですが、そういうパラダイムのもとに「帝国」という言葉を意識していたのが18世紀後半の現況であったとするならば、往時の欧州人における「帝国」像は当然、現代的なそれとは違う形を帯びるものではあるでしょう。要するに、国家が「何がしかの天の理をベースに、異なる部族を結んでいること」を王権ロジックとして打ち立てていることみたいなのが「帝国」の第一義であり(異なる部族といえば、ロシア皇帝の号は「全ルーシのツァー」である)、例えば後の「ナポレオン帝国」や「大英帝国」のような実力本位で多文化の上位に君臨する帝国像みたいなものとは必ずしも被らなかったのではないかと。余談ながら、そういう意味ではナポレオンの意義ってのは、市民革命による近代化された価値観をベースとした「実力本位」の生々しくかつ合理的な世界のあり方を欧州全体に敷衍したこと、にあるのかも知れないなぁと思ったり。

 では、そんな往時の欧州人が異教、ローマ風に表現すれば蛮族(笑)の国家に対して「帝国」と認めるロジックがどうであったか、みたいな辺りに本件のカギはあるのかなぁと思われます。その上で、王権のロジックが大事であって国家の規模は二の次であった、それと、ある程度異なる文化を持つ諸邦に宗主権を持っていた、みたいな辺りが問われるのでしょう。そうした場合、チンギス・ハンを神聖化したモンゴルの後継を称するムガールや清朝、ムハンマドの後継者たるカリフの地位を継承したオスマン朝などは、まぁ普遍的な王権ロジックによる「帝国」として、規模以外の部分でも相応しかろうかと思われます。あと、七つ目の帝国となるペルシャ(ガージャール朝)は、18世紀前半の梟雄ナディール・シャーが大暴れして切り取った領土をある程度回収しつつ、余り聖俗の結びつきは強くないものの、シーア派でまとめている感じ。
 一方で日本はというと、戦国において織田信長以降、天下人が自身を神格化するような動きが発生しています。この流れにおいて、恐らく外見的には、ディオクレティアヌス辺りの古代的皇帝崇拝と似たような性質を帯びる王権のロジックが存在するように外国からは見えたのかも知れません。ただ、実態としてはその神格化は神道をもとに行われており、その司祭の長としてミカド(現代は天皇という)が存在していたのだから、ある意味中世カトリック的な性質も織り交ざっていたようには受け止められていたのでしょうが。いずれにせよ、そうした王権ロジックの上で、彼ら天下人たちは領邦国家的な日本の大名をある程度纏め上げた存在であったことから、江戸初期くらいに鎖国で退いた側の記憶としては、「帝国的」なものを本朝に見出したのかなとも。

 ただ、この記事において留意しておくべきなのは、要するにこういう情報ってのはロシアという「帝国」のロジックを守る側の国のものであり、この国において「帝国」の立場を重視することがメリットであるからこういう扱いになるのであって、上述したように宗教革命でプロテスタントはある程度宗教分離に移行をはじめ、啓蒙主義が従来の王権論を克服しつつある欧州にあって、余りTo-Dateなパラダイムではない、ということ。実態として、19世紀初頭にはナポレオンによってこのパラダイムは止めを刺されてるわけでして。だから、ぶこめとかで「ジョン万次郎はどうだったんだ」とか書かれてるけど、そりゃ時代も降ってしかもプロテスタントの連邦国家たるアメリカでんなこと言っても、みたいなのはあったでしょうねと。
 一方で、「帝国」として遇されていること、そしてそれには上述のように天皇の権威も絡んでいること(記事中の北槎聞略にも「皇朝」という言葉があることに留意)は、ある程度まで、江戸期に興隆した日本の尊王思想的な国家観を側面から支えるものになったのかも知れない、みたいな部分は考慮に値するかなと思われます。実際、この「七帝国」論は、水戸学の会沢正志斎辺りにも言及されてるらしいので。

◆因みに。
 本朝が大国と欧米から認識されていたか否かについては、元記事の議論とはあまり関係ない気はします。ただ、基本的には、コンキスタドーレスみたいなのが少々ちょっかいかけたくらいではビクともしない国家である、みたいなのは戦国期には既に気づかれてた訳で、その上で例えば唐入りみたいなハッタリをかましてたこともあって、結構厄介な国との認識はあったように思われます。ともかく、狭い国土の割にやたら文明化された人口が多いイメージはあったんではと。

◆標題は。
 ホッテントリメーカーより。
旧軍とムラ社会のポジティヴ
 また、ちょっと前のエントリとかからの掘り起こしで。

ネガティブ vs ポジティブ@Rauru Blog
私の考えるメカニズムは次の通りだ。
もともと日本人は引っ込み思案でネガティブな性向が強い。普段から狭いムラ社会で集団の和を保とうとすれば、どうしてもそうなる。ところが、そのような引っ込み思案な態度を続けているだけではうまくいかない局面も往々にしてある。特に軍隊が戦争している状況では、ポジティブさの必要な局面がかなりの頻度で出てくるだろう。
そこで日本人は、状況によって態度をネガティブからポジティブにスイッチさせる心理的機能を発達させるに至った。スイッチのきっかけは「空気」である。空気によって日本人の心理は、ネガティブからポジティブへと一転する。

 ダウト。
 と思うのは、基本的にムラ社会が「引っ込み思案でネガティブな性向が強い」方向に日本人を導いたか、という辺りが全然ピンと来ないから。
 少なくとも、自分と自分の同居人の実家でムラ社会っぽい田舎に在住する大正以前生まれな親戚の爺さん婆さんとか見る限り、皆さん実に快活なもんですよ。到底、彼らのある種なアクティヴさに俺たちが敵うとは思われん。勿論、たまの機会に都会から遊びに来る孫の視点で見てるので、先方がハレモードに入ってる部分はなにがしか割り引かないといけないと思うのだけれど、息子世代(要するに叔父とか叔母辺り)と話をしててもやっぱりこの人たち日頃もそんな変わらんよみたいな結論にはなる。duke氏がこういうステロタイプを語られるのは、ご自身に田舎に土着する親戚がいらっしゃらないか、古い世代の親戚が比較的若くして亡くなられたので、そういう爺さん婆さんと触れる機会がなかったのではと邪推する。
 ただ、この辺り若干微妙なのは、自分のそういう半径数メートルくらいの範囲における親戚ってのも事例としては十分ではなく、ってのは、恐らく自分にしても同居人にしても、親戚の家がある程度田舎の農村内において地位が高い、ありていに言えばそこそこの経済力のある家であり、そういう家の農家とかのようなバイアスが掛ってる可能性も。要するに、ムラ社会において「引っ込み思案になる役」な家とそうではない家があったのかな、みたいなことは考える。要するに、ムラ社会においてムラってのは一つの事業体的な性格のコミュニティとなる訳ですが、そういう中で「経営者」側に近いような存在は比較的外部とインタフェースを持つことも多く、現在の世の中で「経営者」側に立つ、または個人事業主的な人がそうであるのと同様、概ねアクティヴな性向を持ちがちなのかも知れない。そしてまた逆も然り、なのであろう。現在でも客に出向かないプログラマーが余りコミュニケーション的にポジティヴな人が多くないのと同様に、外部とのインタフェースを名主や他の自作農に任せた「労働者」側的な農民たちは、ある程度引っ込み思案になりがちな可能性はあるのかも知れない。まぁ、要するに、事業主的な意識を持って主体的に行動する人が「いない」訳ではなく、ある種の分業によって「限定されている」、みたいなのが日本のコミュニティの実像なんかな、みたいなことは考えたり。

 さて、一方で、昭和軍人である。
 上記のような例と異なり、先の大戦で責任を負うべき昭和軍人は概ね士族出身である。農村的なムラ社会があることは分かっていても、そういうコミュニティの住人ではなかったというのが実情であろう。しかし、彼らの出自の多くは、それほど階級の高くない士族の出身であることが多い。要するに、士族というコミュニティにあって、ピラミッドの下位にあった。そういう、言わばシステムにおいて「引っ込み思案になりやすい」立場の門戸にあって、明治10〜20年代くらいに生まれた、つまり武士として育てられながら、長じる前にその地位を失った世代の息子として、彼らの多くは生まれたのである。然るに、彼らは教育を受ける中で士学校を上位で卒業し、旧軍組織で出世街道を歩んで、50年の時を経てこの国を動かす存在になった。彼らをどう位置づけたらよいだろう?
 答えは、「マッチョ」、である。
 要するに、彼らはそういう「引っ込み思案的なレイヤ」にある門戸からクラスチェンジを果たして、文字通り「立身出世」した存在である。更に言えば、山本五十六の長岡や東条英機の南部のような、賊軍出身だったりするケースも見られる。このような成功体験を果たした彼らは、ある種「ポジティヴの天才」的な側面を持つと言えるし、また彼らがもといた場所である「引っ込み思案な環境」というものを、「克服すべき旧弊」と看做すような部分はあるように思われる。言わば、陸士・海兵のエリートってのは結構な割合でこういう、ともするとネガティヴを全否定するような、マチョズムの塊的「ポジティヴの申し子」的な向きが多かったのではないか。つまり、日本人全体が「ネガティブからポジティブにスイッチさせる心理的機能」を持っていたというのは誤りで、たまたま日本人の中で「ネガティヴからポジティヴにスイッチする能力の高い人」みたいなのが、戦前のある時期に旧軍のヘゲモニーを握ったことによって、ポジティヴに過剰に振れた軍中枢が構成された、と見るのが妥当なように思われる。

 と、ここまで書きつつも、組織の中で厳密なトップダウンを行う仕組みが機能不全を起こしていたことで、現場判断が横行したことが、先の大戦に日本が引き摺り込まれた最大の誘因だと自分は思ってるので、この当時の軍中枢が極端にポジティヴだったから負ける戦争に突っ込んだ、という議論に組するつもりもそんなになかったりするんですけれどもね(苦笑)。
実は有能だったと思われる10−3選。
 ちょっとだけ、感動のレース話はお休みで。
 で、im@sMSCの1回戦投票だけ晒しておこうか。基本的に緒戦は当落線っぽいのを狙い撃ってみたいんだけれど、果たしてどの程度貢献出来ますやら。

A-07 結構いくつかのうちで迷ったが、固定客の少なそうな辺りを残してみる。
B-05 真一点。敢えて正統派過ぎる迷走で来たチャレンジ精神も含め、残って欲しい。
C-03 サンホラ知らないんだけれど、サンホラ?あずささんが良い感じに合いそう。
D-02 千早ガチでInside ofと迷ったけれど、投票の少なそうなのを残す方向で。
E-06 雪歩ブロックで雪歩以外残りにくそうなので、とかちでノリが良好なのを。
F-10 ここはもう、ナニを差し置いてもジンギス一点だろ(笑)。残る限り投票する。
G-11 普通に通りそうだが、宇多田の最高傑作の再現Masterで真なら、一択かと。
H-01 ↑のコメ書いてからH-01見て余りの俺ホイホイな再現に吹いたwwwww。残れ!

 ってのはサテオキ、本題。

評価は低いが実は有能だったと思われる人物@肉汁が溢れ出ています

 ところどころ、「評価が低い」というよりは単に「知名度が低い」みたいな人もあれこれと混じるが、それも含めて日本史板の皆さんのいろんな知識を味わえる良スレのまとめ。
 根本的には、歴史の転回点で勝者と敗者が明確に分かれるシーンで敗者がその負け方とその後の立場ゆえに不当に無能評価をされるケースが多いと思われ、その意味ではどうしても戦国や幕末に人が集中しがちであるには違いないのだけれど、ある程度「評価されるべき人が今ひとつ評価されていない」例も含めてセルフ版10選、と思ったもののやはり石田三成・田沼意次・島津久光あたりが既出分と被ってしまうので、7選まで絞って短評をば。
聖徳太子の政治的実績
 過日のエントリの続きというか補足というか。

 書紀は摂政としての聖徳太子に「萬機をこれに委ねる」とするが、そこに微妙に後付け的感覚があるのは確かである。というのは、そうした場合、神功紀のように「摂政としての太子」を主語として事績が記録されるはずなのだが、推古紀を読んでいくと、必ずしもそうではなく、例えば仏教興隆の詔のくだりは、
詔皇太子及大臣、令興隆三寶
と、推古を主語としている。つまり、書紀の基本スタンスは、あくまでこの時期の統治者を推古と看做しており、この君主を「お飾りの女帝」と考えるのは、文脈的な観点からは必ずしも適切ではない。少なくとも、空位の摂政たる神功のような指導性を書紀編者は太子には見出していなかったのだろう。
 ならば、聖徳太子を何故書紀が「摂政」として史書に残したのか、を思うに、自分は比較的「ボトムアップ的」な心性によるものだと考えている。後世でもある程度巷間の信仰厚い英雄や偉人について、本朝では死後の官位などで顕彰することはよくあるし、またヤマトタケルなどに至っては、風土記においては「倭武天皇」と天皇号すら受けている。これは、ヤマトタケルに比される英雄が実際に大王として即位したと見るよりは、巷間の声望をうけて後付的な顕彰として尊称を架したと見るほうが適切だろう。そのような民間信仰を王権の文脈に取り込むことで、中央の権威を保つ、というやり方である。一方で、「太子」については、隋書にこの時期に世子制度の存在が明記されてることから、聖徳太子が後日の皇太子的ポジションに位置づけられていたと見るのが穏当と思われる。

 その上で、書紀の記事を虚心で細かく見てると、推古朝において「皇太子」が主語として記される事績ってのはさほど多くなかったりする。十七条憲法を親筆したこと(12年)、勝鬘經や法華経の講義を行ったこと(14年)、神祇の司祭を行ったこと(15年)、片岡山で聖者と出会った話(21年)、馬子とともに天皇記・国記を作ったこと(28年)くらいであろうか。逆に言えば、これ以外のことを書紀は「特筆」してはいない。30年近い摂政在位期間を思うと、やや寂しくある。そして、その中で、十七条憲法だけは「親筆」として、全ての条文が引用されてることを思うに、書紀編者としては、聖徳太子をあくまで「十七条憲法を書いた人」として強調したい意図が窺われる。逆にそれ以外については別に偉大な政治家として特に大書してるとも思われない。例えば、別に書紀は小野妹子や隋の返使である裴世清辺りと太子が何か交流したことなんて話は一切伝えていないのである。
 で、この十七条憲法についての偽作説も聖徳太子非実在論では語られるのだけれど、個人的には
「憲法の部分を全く一から後世の編者がでっち上げた」
というのもちょっと考えづらいかな、みたいな気がしなくない。要するに、上に書いたとおり、書紀編者は別にそこまで聖徳太子の政治的事績を思い入れ満点に紹介しているとも見えないからである。それならば、むしろ神功〜仁徳や継体辺りに対する叙述の方が「名君色」を演出する意図を感じる。個人的には、十七条憲法が聖徳太子の時代に制定され、恐らくその主導も太子自身である一方で、後世の法理から見て時流に合わない叙述や古い表記の現代化を行ったことによって「偽作的」な潤色が入ったのだろうと思われるが、それとて限定的なものであろうかと。その上で、この件について格別に大書されているのは、律令国家たる史記編纂時の国家が、その拠って立つ「法」を重視する文脈で巷間の聖徳太子の権威を借りたのではないか、とも推察される。要するに、この辺りで虚構性があるとすれば「太子が憲法を制定したことの正否」よりも「史実の推古朝にあって、その憲法がどの程度重要なものだったか」にあるのではないか。

 この辺り、ちと興味深いのだけれど、管見では現代の巷間において聖徳太子の事績として最も特筆すべきは「遣隋使」とされるのではないか、と思っている。要するに、隋書にある「日出づる処の天子」云々が、聖徳太子の「シンボル」とされている、と。それは、近現代の世界がよりグローバルであり、そういう「外交」に着目した部分がよりキャッチーに見えるから、ってのもあるだろう。しかし、この遣使について、書紀は主語を省いた形、つまり「天皇の政策」として記しているのである。無論、推古朝の上宮皇子がある程度の政治参与を行っている前提に立てば、無関係だったとは言えないだろう。また、「タリシヒコ=ヒコ=男性」という近代以降の見解もここでの太子の存在感を強調する方向に動いた、ってのはある。しかし、少なくとも書紀は「遣隋使を送った人」として聖徳太子を特筆している訳ではない、みたいなのは知られててもよいかなと思われる。この辺りのミスマッチが、「現代の聖徳太子」を巡っては存在してるのかな、と。
 因みに、中世の人士においては、この辺りの書紀の機微は恐らく正しく解されており、それ故に御成敗式目や建武式目といった中世政権の基本法はそれぞれ17条や51条(17の倍数)で記述されていると思われる。
聖徳太子の虚実と、書紀への誤解。
週のはじめに考える 書き換わる聖徳太子像@東京新聞

 聖徳太子ってのはある程度以上は伝説的なフィギュアではある。少なくとも、近現代においてこの人物の政治家としての評価は、恐らく史実と比べて過剰な方向に振れていたのではないかな、と思わされる部分は存在する。というか、恐らく書紀自体がそこまで聖徳太子を政治家として評価していない、とすら思われる。推古の摂政として推古紀の冒頭に記しているが、そもそも摂政自体がある種この当時は曖昧な役割な部分もあって。
 その上で、書紀を虚心に読んだ上で多くの学者が疑問に思うような「聖徳太子の虚構性」が何らかの形で存在するという認識がある、みたいな意味では「非実在説」は定説化しているとは言えるのだが、聖徳太子と後に呼ばれる皇子がそれほど推古朝の上級社会で無意味な存在だったかというと、多分そうではなさげで、虚構性を強調するのはどうかな、とも。あと、非実在説的な文脈では書紀のほか、法隆寺関連の金石文の史料批判や天皇号の成立の評価などが議論の前提として絡むのだけれど、個人的には新書レベルの歴史本を漁ってるだけのレベルで見てても、この辺りにまつわる諸説についてはまだ決着がついてるとは言い難いと判断していて、その意味でも「定説化」というのは言い切れないなぁとも思われますし、まして蘇我馬子が王位にあったという説なんかは、未検証の仮説に過ぎないでしょう(この時期に推古以外の男王がいた[ないしは太子が天皇に匹敵する権威を持っていた]根拠として、中華側の遣隋使記事の王名タリシヒコ=ヒコ=男という考え方があるが、この思考自体が勘違いで、タリシヒコ=推古でも何ら問題ない、みたいな議論も存在するので)。

 あと、上で「書紀自体がそこまで聖徳太子を政治家として評価していない」と書いたが、要するに「書紀」に対して側面的に付けられた史料によってある程度聖徳太子の虚像は膨張している部分があり、それは恐らく書紀編者の意図とは関係ない。あくまで、虚像を作るエネルギーは巷間の側に存在して、王権の側はそれを適度に利用しつつ、顕彰したまでであろう。少なくとも、聖徳太子の存在によって万世一系の物語を補強しよう、みたいな意図までもが書紀編者のうちにあったかというと、書紀を読む限りは「ねぇよw」と思う。何故にこのような誤解が生じるのかを思うに、恐らくリベラルな史観に立つ人の中では、書紀の編者をもって近代の皇国史観のような考え方の日本教の教祖と信じ込んでる面があるのではないだろうか。恐らくそれは致命的な誤解であり、書紀は確かに現在に連なる天孫の氏族を「勝者」として顕彰するが、別に明治政府で行われたような天皇を中心とする宗教性を明示するものではないだろう、という気もする。要するに、何らかの経典ではなく、あくまで史書に過ぎない、ということ。それは、書紀編纂後の天皇が特に自身の神格化を強化する動きをしていないことからも明白であろう。
#歴史を記述すること自体の政治性は認めるが。
 この時代の政府はあくまで律令政府であるし、既に支配層においては仏教や道教の浸透も進み、王権の支配ロジックとして天皇中心の集権的な神道ヒエラルキーを前面に出す必然性は存在しなかった。地方はある意味原始共同社会的なカミがまだ息づいていたし、それは徴税などの文脈で重要であったが(この時代だと、カミへのお供えとしてしか徴税を理解できない人も多かったであろう)、そこで重要なのはローカルなカミであり、中央集権的な上位神は余り関与しない。
 恐らく、万世一系のような始祖神話ってのはむしろ同様の王権神話を持つ半島諸国との対抗の文脈もしくは(神話学的な)影響下において作り上げられたものであると考える方が自然であり、本朝と半島の濃密な交流史を考えれば、7世紀よりはかなり遡るものであろう。書紀はそれを単純に過去の王権から引き継いだに過ぎない。その意味では「誤解された史書」という印象が強いなぁと。

 では次は、富本銭vs和同開珎、教科書に載るべき最古の貨幣はどっちだ!で一席ぶってもいいのだけれど(笑)、聖徳太子の余談とかをもうちょっと次のエントリ辺りで書こうかなと。

◆ちと追記。
 仁藤敦史氏@歴博による、太子伝説の経緯と研究史の概観についてバランスよくまとめた短評を、参考として貼っておこう。帝国書院のサイトということもありますが、これがほぼTo-Dateな「教科書的解釈」ということで。PDF注意な。
 ・[PDF] 聖徳太子は実在したのか
昨日のアレの解説。
 てな訳で、お約束どおり解説をば。途中からは教科書見ても分かるネタばっかりになるから割愛な。
 一応、昨日の組曲へのリンクはこちら
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