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殿下執務室2.0 β1

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有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

歴史の闇に消された王 

 5世紀の三韓は百済に、久爾辛という王がいる。
 書紀の百済記引用の記述が正しければ、この王の父腆支王は414年に死去した。字面の紀年としては294年であるが、この時代のこの史料の常識としては、干支は2回り繰り下げられる。時あたかも高句麗の広開土王の席巻する時代、父王は同盟先の倭で人質として待機しつつ、倭人の警護を受けながら渡海し即位した経緯を持つ。その帰朝にあたっては本国に留まっていた叔父が簒位を狙っており、忠臣に助けられて王座を得るなど、なかなか容易ならざる展開はあったらしい。そして、書紀所伝の百済記が伝えるところによると、久爾辛もまた、長じる前に父に死なれたことで苦しい立場にあったようである。つまり、木満致なる官人が大后と密通しており、政務をほしいままにしていたと伝えられる。木満致は倭人と韓人の間に生まれた混血であり、一部の学者は蘇我氏の祖先と同一視をしている。一方で、大后である久爾辛の母は八須夫人と三国史記に名が伝わるが、こちらもまた、父王が適齢である頃に倭に滞在していた事情もあって、倭人説がある女性である(そうであるならば、この王もまた倭で生を受けたとなるのだろう)。広開土王の仕掛けた三国の戦乱は地理的に海を隔てた倭に利する面はあり、百済にも比較的倭の勢威が強めに浸潤していた時代にこの王は即位したと言えるだろう。倭は、乱れた百済の宮廷に対して干渉し、木満致を更迭して自国に召喚したと記す。
 そのような中で即位した久爾辛であったが、そのようにして大后や重臣のくびきが外れるや、416年には東晋に朝貢して、倭に先んじて鎮東将軍の称号を得ると、東晋が宋にかわるや鎮東大将軍に進号される。鎮東大将軍はこの後、百済王に代々伝わる称号として、100年後の武寧王に至るまで墓碑などにも大書されるものとなった。海を隔てた驕慢な隣国に対して、格上となる称号を持つ心地よさはあったかも知れない。一方で妹を倭に嫁がせるなど、先代からの同盟を維持しつつ、南朝との交流を通じて外交で存在感を示すことがこの王のテーマとなっていたようだ。朝鮮半島における仏教伝来の嚆矢となる阿道上人が熊津に甲寺を創建したのもこの王代となる420年とされる。424年には再度遣使を送ると、以後、毎年にわたって朝貢を行う徹底ぶりであった。南朝の史書にはその名を余映と記録される。恐らくは百済の歴史の中でも、このように頻繁な南朝への遣使を行った王はいないように見える。430年に、次代の毘有王が朝貢して爵号を継ぐまで、その関係は継続したようである。その没年は430年、或いは429年の比較的遅い時期に絞られるだろう。父・祖父辺りの事情を考慮すると400年前半から半ばあたりに生まれたと思われる久爾辛は、夭折の君主であった。その死を詳らかに伝える資料は、内外に残ってはいない。
 しかし、この王について、半島の正史である三国史記が伝えるものは、余りにも少ない。久爾辛王記の全文を引用しよう。
 久爾辛王 腆支王長子 腆支王薨 即位
 八年 冬十二月 王薨
 僅か、これだけである。欠史と言ってもよい。
 欠史と言えば本朝の八代の欠史が知られるが、あれは始祖伝説の系譜を指示する意味合いがあったし、后の名前や陵墓の記事、年齢などの僅かな情報はあった。この王は勿論始祖でもなく、既に有史の只中にあって、その事績が悉く消えているという点で、やはり異常であろう。
 しかも、その伝えられる即位年・没年も、日本書紀所伝の百済史料や南朝の宋書といった、より信頼できる同時代性の高い史料を考慮した場合に首肯できないものとなっている。それは420年~427年とされるが、即位前の幾許かを腆支に、没後の幾許かを毘有に吸収されているのだろう。この史書は、その前後の諸王に関しては、比較的近隣国の史料ともよく同期するような紀年を残しているだけに、このズレは書紀における紀年の不自然さ以上に目立つものである。そして、この王の王名もまた謎めいている。久爾辛は「くにしん」と読めるが、それは古代の本朝で三韓の王族を指す「コニキシ」に通じるようにも聞こえるのだ(白村江の後、本朝に亡命した百済王族は「百済王=くだらのこにきし」という氏を与えられている)。要するに、王名が「王」のようにも。そして、南朝が記した余映という中華名について、三国史記は不自然にも腆支に比定してしまった。言わば名前までもが、半島の歴史の中で徹底的に抹消されているようにも見えるのだ。
 一体、複雑な国際情勢のもとで生まれ、恐らくどう上に見積もっても30歳にも満たずに世を去ったと思われるこの若き王に、どのような「歴史から消されなければならない」事情があったのであろうか。その上で、わざわざ欠史としてその存在だけが指示されるのは、一体どのような事情なのであろうか。
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テーマ: 歴史上の人物

ジャンル: 学問・文化・芸術

タグ: 古代史  三韓  百済   
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この記事に対するコメント

日向より

 面白いお話です。隋の煬帝が「だい」と読むのは後世の悪評を反映しているからだ、という人がいますよね。その真偽はさておき、騎馬民族のように記すという意思がなかったわけではなく、故意に作られた欠史というものはその分想像力を書き立てられますよね。
 私は常々、そのような歴史における他者の意思の介在をまことにうっとうしいものとばかり考えておりましたが、実際のところは色んな修飾が為されているからこそ歴史は面白いのですよね。まあ逆に言えば、改竄を面白いなんて言ってられるのは歴史くらいのものでしょうが。
 長々と申し訳ありませんでした。いや、面白いブログであります。

URL | H5N7 #qugyF3f6

2007/03/15 10:24 * 編集 *

H5N7さま>
日向も今年は色々ありましたが、ひとまずオープン戦も一段落して、祭りも落ち着いた、というところでしょうか。
歴史に関しては史実は一つなのでしょうけれど、史実とは一つの山のようなものであり、角度を変えればいろいろな姿が見えるもので、一方で手がかりとなる史料は極めて2次元的な辺りで意図の介在する余地、となるのでしょうかね。
ただ、歴史的に不名誉だったり様々な理由で「消される」人物が多い中で、この人物の場合、今ひとつその理由が掴みづらい辺りで面白いと思います。あと夭折の王というとツタンカーメンとか思い出しますよね。

URL | 有芝まはる(ry #LBrjZuRI

2007/03/18 23:26 * 編集 *

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