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殿下執務室2.0 β1

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有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

フォトジャーナリズムと、倫理以前の手続きと。 

「原発事故で人が住めなくなった村」という印象操作の手口@Togetter

丁度こんなのが話題になって、まぁ要するに「原発事故で放置された車両」というキャプションでデカデカとカバーを飾った写真について、Google Mapで確認したら2009年には既に廃棄車が並んでたので、これ要するに廃棄場ですよねというオチだった、というお話。まぁそれ自体は「あー貧すれば鈍するやねぇ」程度でそれ以上の感慨はなかったが(まぁ、Google Mapでこういうのがしれっと検証されてしまうとこは、面白いっちゃ面白いかもだけれど)、それに対して出版元のDays Japanからの謝罪があって、共同通信にも流れてきた、という次第。

Days Japanの記事は、写真・文ともにArkadiusz Podniesinski氏のキャプションなので、恐らくはこのサイトが原文であるとは思われる。
http://www.podniesinski.pl/portal/fukushima/
結構浩瀚なページで画像も重いので、問題の写真にまつわる部分だけをまるっとコピペするとこんな感じ。文脈としては、双葉町に訪れてという辺りからの続きだが、特に場所を変えたニュアンスは文中に無く、そのままの流れで出て来る。

In the vicinity of the red zone I happen to notice an abandoned car. It is hard to make it out from a distance, it is almost completely overgrown with green creepers. When I get up closer I notice that there are more vehicles, neatly organised in several rows. I guess that the cars became contaminated and then were abandoned by the residents. A moment later the beep of the dosimeter confirms this.

これ「誤訳」と言えばまぁ誤訳だろうなぁと思うのは、"vicinity of the red zone"と書かれていて、まぁそのものの帰宅困難地域ではないってのは書かれている。
実際このロケーションであるとこの富岡町北部は、ほぼ全域が帰宅困難地域の大熊町に隣接してるので、そこは間違ってないし恐らく写真家本人としては「そこを出てから」のことと分かって書いてるのだけれど、恐らく原文が舌足らずだった辺りとvicinityという単語の見落としで「双葉町」ってそのまま書いちゃったのかな、くらいの。
その意味では、はてブ辺りで指摘されてるような「何が誤訳だよ」みたいな指摘はちと外してて、まぁ本当に誤訳みたいな面はあったりも、と。
一方で、恐らく写真家自身も「印象操作」としてそこまで悪意を持ってこの写真を撮ったというようには思われない。まぁ単にその辺りの転がってるクルマ見て「これは放射能汚染された車を廃棄したのだな」と早合点したくなる気持ち自体は分からんでもない。その意味では、「白を黒といい含める」的な捏造ではないし、そのレベルでの倫理欠如を疑うべきではないだろう。
ただ、絶望的になるのは、単に撮影した写真に対しても、詰まる所、撮影者はかくもカジュアルに「間違った意味を含める」ことが出来るという辺り。その危険さを自覚して、かつジャーナリズムとしての主張を印象的な場面を切り取って表現するというのは、なかなかに因果なものではあるな、と。基本的には、「倫理欠如」はこの場面では問われないけれども、やはり「写真家としての資質」として、これは汚点とすべきものであろうとは思う。しかし、その「汚点」をどう自律すべきなのだろう、と考えると、それはそれでなかなかのリソースを要求される、みたいなとこはあったりも。
その意味では、フォトジャーナリストはやはり「編集」によって、自らの写真が誤ったメッセージを発する危険を制御される方が良いとは思われるし、特に今回のように書籍として再録するようなケースでは、編集の側が写真に対するウラ取りと尋問を果たす必要はあったのではないか。
そういう、スーパーバイザー的な役割の「手続き的な瑕疵」が、本件の本質ではとも思う。
「編集」として拡散する主体としては、一次情報に対してフレームアップするのが「本義」ではなく、そこで情報の強靭化を何らかの形で果たさなければならないのだろう。そして、そういう厄介な役割は、ネットにおいて情報を「拡散する」主体としての我々にも、ある程度は求められるもの、なのかも。単に拡散する前に、そこに何かの考察を入れ、そのまま流すべきか、コメントを加えるべきか。やはり、情報を見たら「そこに絡むもの」は、幾つか考えるクセは付けたいよね、と。
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