オグリ最強という違和感。
05.01.2011, 22:39:57 -edit-
標準、四角四面(挨拶。

Mirroring Gate posted by (C)有芝まはる殿下。
DMC-G1 Lumix G Vario 14-45mm/F3.5-5.6 ASPH.(25mm) F8.0 1/125s ISO-100
◆全盛期のオグリキャップって間違いなく史上最強馬だったよな@ニコニコVIP2ch
恐らく、ある程度年季の入ったオールドファンは、スレタイに違和感を感じたのではないか。
オグリキャップが「史上最強馬」という文脈の俎上に上げられることに関して。
ぶこめでは、urbansea氏が「で、ようやっとオグリキャップは神話になった、と。」と書かれているが、それともちょっと違う感慨はある。どちらかというと、「イナリワンやスーパークリークが、余りポジティヴじゃない文脈で『忘れられた』」的な思いの方が強いかな、と。せいぜい、オグリキャップという馬を喧伝するためのある種の刺身のツマ的なものになってるというか。
オグリキャップは基本的に「絶対性」というものはなく、オグリファンが「オグリは強いんだ」という場合、それは「プロレスラーは強い」とか「ノアだけはガチ」的な何かというか、その闘志の表現力みたいな部分に対して「強い」と形容するモノなのかな、という気はしている。まぁ自分がその時代そこまでオグリに入れあげてた、ってのともちょっと違うのでこの辺の見立てはアレかも知れぬが。
はサテオキ、それでもオグリは「強い馬」かも知れない。というか、オグリは「速い馬」というよりは「強い馬」的な思いはある。もうちょっと言えば、サイレンススズカには「強さ」よりも「速さ」を感じるのだが、それとは逆の文脈、というか。ただ、恐らくこの時代に、ある種の「格式」的なものが存在しており、その「格式」においてシンボリルドルフやシンザンという先達が睥睨している中で、「最強」という文脈からはオグリキャップは離れていたのではないかと思う。
一方で、オグリキャップの10年後に、例えば98年クラシック世代の名馬などはやたらめったら今でも無駄に「最強」系議論の俎上で酒の肴になる訳だが、その意味では90年代初頭にあってオグリとは違う文脈である種の「格式」を担うと思われたメジロマックイーンとナリタブライアンが、前者は93年春天、後者は96年春天での敗北辺りで、その「格式」の完璧性にキズを持った辺りの間隙の故であるのかも知れない。無論、もう一つの文脈として、97年と98年の海外遠征の余りにも極端な隔絶というある種の偶発的かつ象徴的な溝がここで生じているから、というのもあるが。
その文脈で、例えばディープインパクトは「格式」を担えるのか、或いは「脚質が反転したサイレンススズカ」的な「速い馬」のラジカルな事例なのか、判断に迷うところではある。一方で、この馬の活躍後に牡馬の大駒がある程度苦戦し、牝馬に歴史的な傑物は立て続けに出たものの、やはりウオッカ、ダイワスカーレット、ブエナビスタそれぞれが、微妙に1枚ずつくらい弱みを残す面もあり、そういう後の世代の対ディープ的な文脈での比較の中で本当の意味での格式が定義づけられるのかな、みたいなことは思う。
一方で、メジロマックイーンやナリタブライアンが「強い馬」として築いた格式を、もうちょっとその僅か後の世代がリスペクトする地盤みたいなのが築けたら良かったかな、みたいなことは思いはするが、逆に言えばそれが欠けたモメンタムこそが、あの時代の素晴らしさだったのかも知れない、みたいなことは考えたりもする。
最強、というのはなかなかに難しい。
傑出度で見るならば、結局アスリートたる競走馬の平均能力向上が傑出馬の出現を阻害するし、ライバルがひしめき合う世代は、実はまとめて一頭の傑出馬に差しきられるのではないか、という疑念も残すところではあろう(TTGの史上最高の有馬に登録までしていたマルゼンスキーがもし実際にあの日の中山にいれば、的なIfとか)。
ただ言えるのは、「最強なオグリキャップなんてつまんなかっただろうよ」ってこと、かな。
もうちょっと言えば、最強な馬がつまらない……ということではなくて、「『最強』という歴史文脈で、目の前にいない馬と闘わせるなんてのは、実際に目の前にいる馬と闘ってる馬ほどの魅力はないんだぜ」ということ。それはディープインパクトやシンボリルドルフみたいな馬でもそうで、彼らが競馬場で干戈を交えている実際のレースの中にこそ、競馬の魅力はあるんだろうな、と。
オグリは、そういう目の前の馬との闘いで、最高に魅せた馬なのだから。
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◆全盛期のオグリキャップって間違いなく史上最強馬だったよな@ニコニコVIP2ch
恐らく、ある程度年季の入ったオールドファンは、スレタイに違和感を感じたのではないか。
オグリキャップが「史上最強馬」という文脈の俎上に上げられることに関して。
ぶこめでは、urbansea氏が「で、ようやっとオグリキャップは神話になった、と。」と書かれているが、それともちょっと違う感慨はある。どちらかというと、「イナリワンやスーパークリークが、余りポジティヴじゃない文脈で『忘れられた』」的な思いの方が強いかな、と。せいぜい、オグリキャップという馬を喧伝するためのある種の刺身のツマ的なものになってるというか。
オグリキャップは基本的に「絶対性」というものはなく、オグリファンが「オグリは強いんだ」という場合、それは「プロレスラーは強い」とか「ノアだけはガチ」的な何かというか、その闘志の表現力みたいな部分に対して「強い」と形容するモノなのかな、という気はしている。まぁ自分がその時代そこまでオグリに入れあげてた、ってのともちょっと違うのでこの辺の見立てはアレかも知れぬが。
はサテオキ、それでもオグリは「強い馬」かも知れない。というか、オグリは「速い馬」というよりは「強い馬」的な思いはある。もうちょっと言えば、サイレンススズカには「強さ」よりも「速さ」を感じるのだが、それとは逆の文脈、というか。ただ、恐らくこの時代に、ある種の「格式」的なものが存在しており、その「格式」においてシンボリルドルフやシンザンという先達が睥睨している中で、「最強」という文脈からはオグリキャップは離れていたのではないかと思う。
一方で、オグリキャップの10年後に、例えば98年クラシック世代の名馬などはやたらめったら今でも無駄に「最強」系議論の俎上で酒の肴になる訳だが、その意味では90年代初頭にあってオグリとは違う文脈である種の「格式」を担うと思われたメジロマックイーンとナリタブライアンが、前者は93年春天、後者は96年春天での敗北辺りで、その「格式」の完璧性にキズを持った辺りの間隙の故であるのかも知れない。無論、もう一つの文脈として、97年と98年の海外遠征の余りにも極端な隔絶というある種の偶発的かつ象徴的な溝がここで生じているから、というのもあるが。
その文脈で、例えばディープインパクトは「格式」を担えるのか、或いは「脚質が反転したサイレンススズカ」的な「速い馬」のラジカルな事例なのか、判断に迷うところではある。一方で、この馬の活躍後に牡馬の大駒がある程度苦戦し、牝馬に歴史的な傑物は立て続けに出たものの、やはりウオッカ、ダイワスカーレット、ブエナビスタそれぞれが、微妙に1枚ずつくらい弱みを残す面もあり、そういう後の世代の対ディープ的な文脈での比較の中で本当の意味での格式が定義づけられるのかな、みたいなことは思う。
一方で、メジロマックイーンやナリタブライアンが「強い馬」として築いた格式を、もうちょっとその僅か後の世代がリスペクトする地盤みたいなのが築けたら良かったかな、みたいなことは思いはするが、逆に言えばそれが欠けたモメンタムこそが、あの時代の素晴らしさだったのかも知れない、みたいなことは考えたりもする。
最強、というのはなかなかに難しい。
傑出度で見るならば、結局アスリートたる競走馬の平均能力向上が傑出馬の出現を阻害するし、ライバルがひしめき合う世代は、実はまとめて一頭の傑出馬に差しきられるのではないか、という疑念も残すところではあろう(TTGの史上最高の有馬に登録までしていたマルゼンスキーがもし実際にあの日の中山にいれば、的なIfとか)。
ただ言えるのは、「最強なオグリキャップなんてつまんなかっただろうよ」ってこと、かな。
もうちょっと言えば、最強な馬がつまらない……ということではなくて、「『最強』という歴史文脈で、目の前にいない馬と闘わせるなんてのは、実際に目の前にいる馬と闘ってる馬ほどの魅力はないんだぜ」ということ。それはディープインパクトやシンボリルドルフみたいな馬でもそうで、彼らが競馬場で干戈を交えている実際のレースの中にこそ、競馬の魅力はあるんだろうな、と。
オグリは、そういう目の前の馬との闘いで、最高に魅せた馬なのだから。
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この記事に対するコメント
はてブやこの記事でテイエムオペラオーが挙げられなくて泣いた
00年のオペラオーはある意味最強の体現だったと思う
つまらないという部分も含めて。
00年のオペラオーはある意味最強の体現だったと思う
つまらないという部分も含めて。
URL | TK #-
2011/01/07 02:20 * 編集 *
TKさま>
どもです。
テイエムオペラオーはもし言及するとしたら、「TTGに対するマルゼンスキー」の文脈で、「00年のテイエムオペラオーが99年の有馬記念の舞台にいたら、グラスペの名勝負の半馬身前で悠々先着」くらいの語りになったかな、的なことも。
どもです。
テイエムオペラオーはもし言及するとしたら、「TTGに対するマルゼンスキー」の文脈で、「00年のテイエムオペラオーが99年の有馬記念の舞台にいたら、グラスペの名勝負の半馬身前で悠々先着」くらいの語りになったかな、的なことも。
URL | 有芝まはる殿下。 #LBrjZuRI
2011/01/07 23:32 * 編集 *
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2011/01/07 22:03
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