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殿下執務室2.0 β1

  : 

有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

赤い伯爵の、馬主時代。 

 新日暮里!(挨拶。

無題~室内1
無題~室内1 posted by (C)有芝まはる殿下。
DMC-G1 Micro-Nikkor-P Auto 1:3.5 f=55mm F3.5 1/50s ISO-400

 さて、過日のオフで「ロイド・ウェバー卿ってわざわざSirじゃなくてLordだから、世襲貴族だったのか一代貴族なのかよく分からなくなるよね~」みたいな話をヨークシャー・オークスのレープロとか見ながら何となく話してた記憶がありますが、勿論ロイド・ウェバー卿は後者な訳で。
 一方で、芸術系の大物で文句なしの貴族、それも相当な名家に入るであろうミラノのヴィスコンティ公爵家に生まれたのが、「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」といったゲイ術のピナクルを築いた、イタリアの映画監督、ルキーノ・ヴィスコンティ。このヴィスコンティ伯爵(嫡子ではないので公爵位は得てない)も、実は馬主であり、オーナーブリードまでしていたホースマンでありました。代表馬としては、生産はしてないものの、1932年にシニョール・フェデリコ・テシオから二束三文で買い上げた Sanzio。多分、Sanzio Raffaello から取ったと思われる馬名のこの馬は、どうも気性に問題があってドルメロでは活躍しなかったっぽいのだけれど、オーナーが変わって何か良い作用があったのか、一気に本格化してミラノ大賞・オステンド大賞を制し、年度トップの座は1歳年下のクラシック4冠牝馬 Jacopa Del Sellaio に持って行かれたものの、当時のイタリア古馬最強馬となりました。
 その後も精力的に牝馬を導入したらしいのですが、戦績としてはこれを上回る実績は出せなかったヴィスコンティ伯は、その10年後の1942年に、厩舎を畳みます。奇しくも、その翌年の1943年に、彼は貴族ではなく映画監督として「郵便配達は二度ベルを鳴らす」によって華々しくその名を知られることとなりました。或いは、映画を本腰でやっていく中で、オーナーブリードとの両立を諦めたのかも知れないですし、逆にテシオのような傑物の居る中で、これに取って代わるのを諦めた部分もあったのかも知れません。
 一方で、彼がイタリアの馬産界でもう一歩ステップアップするチャンスは、すぐそこまで来ていたように思われます。彼が1933年に生産した牝馬に、Talma という Papyrus の産駒がいました。偶然ながら、Sanzio の父も Papyrus なのですが、ともあれ、この牝馬は繁殖として成功を収め、1941年生まれの Dalmazia はレジナ・エレナ賞を、1942年生まれの Traghetto は伊ダービーを制したのです。この辺りの繁殖を持ち続けられていたら、或いは生産者としての栄光も近かったのかも知れません。ココ・シャネルによって映画の道に彼が進まなかったら、なんて思いをちょっと味わいつつ、一方で、彼とシャネルの親交にはフランスの繊維王マルセル・ブサックは絡んでたのだろうかなどと、ふと気にしてみる。
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テーマ: 競馬

ジャンル: スポーツ

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この記事に対するコメント

テシオとSanzio

ゲイ術わろた。(挨拶

テシオしか居ない的誤解で捉えられがちですが、WWII前後の北イタリアって急速な経済発展のおかげで、かなり大物馬主がそろってるんですよねぇ。デ・モンテル、クレスピ家、このヴィスコンティ、他にもアロイシ兄弟、ヴェルガ夫妻などなど。
一度しかなかった黄金期でも、その煌きは競馬史に残る。日本はちょうど今そんな時期なのかな、と思ったりも。

Talma の初仔 Trau はジョッキークラブ大賞とアンブロシアーノ賞、Dalmazia の全妹 Trencore は母と同じビンビ賞を勝ってます。いずれも父はテシオ馬。
Sanzio の姪の子 Turysta と、Talma の娘がポーランドで出会い、そこから波名馬 Trabant が出る訳ですが、ヴィスコンティが馬主を続けてたらこんな馬を生産していたのかもですねぇ。

昔 Sanzio について書いた文章見つけたので貼っておきます。
-----------------------------
Sanzio は、テシオにバーデン大賞勝利(テシオにとって初めての国外大レース勝ち)をもたらした Scopas や、黄金世代の2歳王者 Scopello の甥に当ります。天才画家ラファエロの名を借りたように、当初の期待は相当なものだったと思われますが、幼少期からテシオの調教を激しく拒否し、デビュー戦には勝ったもののその後出走していませんでした。

テシオの厩舎で怒りを目にためて燻っていた Sanzio の前に通りかかったのが、ルキノ・ヴィスコンティ。当時25歳、中世よりミラノを治めた名門ヴィスコンティ公爵家の御曹司にして、イタリア屈指のプレイボーイです。
ヴィスコンティは、派手さを嫌うフェデリコ・テシオとは不仲ながら、夫人リディアとは貴族同士幼い頃から親しくしており、ドルメロにも入り浸っていたのでした。

Sanzio を気に入ったヴィスコンティは、テシオからこれをわずか1500リラで買い取り、パンドルフィ厩舎に預けてこれを丁寧に調教しなおして出走させると、当馬は同年のミラノ大賞、オステンデ国際大賞を勝ち、兄 Scopas に匹敵する評価を得ました。
常日頃自分の生産馬を売ることにあまり躊躇いのなかったテシオでしたが、Sanzio に関しては売却を非常に悔やみ、凱旋門賞に登録した Sanzio が人気になった時の怒りは尋常でなかったと伝えられます。結果として凱旋門賞の Sanzio は、苦手な重馬場にあえいで Motrico の8着と敗れ、通算10戦7勝で引退するのですが。

Sanzio 事件は、その3年前にデ・モンテルが Ortello で凱旋門賞を勝ったこと以上に、テシオを焦らせました。自分は成功している、が資金さえあればもっと大きな成功を手にできる。ヴィスコンティやデ・モンテル、クレスピといった大資本に負けてたまるか…そうした思いが、彼にインチサ侯からの資金提供を受ける道、そして本場の高額な種牡馬を惜しげもなく使う道、そしてその先にある Nearco 誕生へと歩みを進ませることになるのです。

URL | さ #KFnQoIb2

2010/08/13 00:42 * 編集 *

鞘先生の※に、バーデン大賞を勝ったScopasとか出てきて、うちの「ネレイーデ物語」の枕の話じゃないかと思わず※
同系の血がドイツに入ってきたわけじゃないですが、このバーデンショックはドイツにも大きな影響をもたらしたということで話がスピンオフして面白いです。
てなわけで図々しくうちのリンク貼っときますw
http://www.shibashuji.com/geschichte/nereide/pro.html

URL | 芝周志 #tHX44QXM

2010/08/13 01:03 * 編集 *

殿下や「さ」さんにこんな素敵なモノを書かれてしまうと、少ない知識を何とか修辞でごまかしておっちら文章を書いている自分は「かなわねえなあ」と思ってしまったり。と同時に知識欲が刺激もされてありがたくもありますが。

URL | りろ #-

2010/08/13 23:33 * 編集 *

Sanzio 蛇足

前投稿で凱旋門賞の結果を誤記してました。うう、すみません。訂正しておきます。
りろさんに褒め殺されるとこういうミスが倍恥ずかしいぜ…。orz

リンク先に Sanzio のミラノ大賞やオステンド国際大賞の時の写真がありました。
Sanzio は友人ジュゼッペ・ラディーチェ=フォッサティとの共同所有だったようです。ベルギー遠征時に主戦P.オルシーニ騎手が生牡蠣を食って腹を壊し、P.ドノヒューに乗り変わって勝った、また重馬場がからきし駄目でリットリオ賞(ローマ開催、旧オムニウム賞、現共和国大統領賞)でも凡走したなんて記述も。

http://ricercavisconti.wordpress.com/2009/01/17/luchino-visconti-gentlemen-rider-1931/
http://ricercavisconti.wordpress.com/2009/01/19/luchino-visconti-1932-1/
http://ricercavisconti.wordpress.com/2009/01/21/luchino-visconti-1932-2/

>芝さん
Sanzio と同期で、テシオと相思相愛だったのが名牝 Nogara。
エーレンホフに売られて Nereide の祖母となった Nera di Bicci(キウスラ賞、センピオーネ賞)の半妹で、Nearco & Niccolo dell'Arca の母ですねぇ。

Sanzio 以後このSラインは Sciarra(センピオーネ賞)、Simone da Bologna(パリオリ賞)、ポーランドに強奪^H^H輸出された Turysta(ポーランドで大統領賞3連覇、ワルシャワ大賞連覇、クリテリウム賞4連覇など無双)などを出すも、以後活躍馬は途絶えたようです。
テシオは牝馬を30頭以上持つことはなく、牝系をがっちり育てていく興味はあまりなかったのですね。Turysta が残ってたらどうなったかなぁと。

一方でNラインは Naucide 以後テシオの手を離れつつ(Neckar の時代すでにテシオの手にはNラインは殆ど残っていなかった)、その後もドイツやイギリスで続いていった訳で、Nライン最初の活躍馬 Nera di Bicci に目を付けたシュテンフェルト博士(かな?)の先見性は大したものですね。
エーレンホフが輸入した馬のリスト、宜しければ詳しく教えていただきたいものです。

URL | さ #KFnQoIb2

2010/08/16 20:20 * 編集 *

もう一人のプレイボーイ

ヴィスコンティとの間でブサックが絡んだかどうか、ココ・シャネルの分厚い伝記を読みたいがまだ果たせず。
あまり分厚くない本で読んでた限り、同じアパレル業界ながらブサックとシャネルの関係は決して近くなかったです。特に戦後は女性的なディオール(スポンサーがブサック)と中性的なシャネル、反独のブサックと親独のシャネルで立場も遠くなる。

拙思うに、おそらく絡んだのはイギリス社交界随一の御曹司、二代目ウェストミンスター公爵の方ではと。

リア厨でマセ餓鬼だったルキノ・ヴィスコンティが家出してシャネルに甘えたのが1920年。
その後シャネルはヴィスコンティらと遊びつつ、1924-30年はウェストミンスター公と愛人関係となり、結婚寸前まで行く。それが破局した頃、ちょうどヴィスコンティは馬主活動を始めている。
邪推ですが、ウェストミンスターに代わって…というアピールだったんじゃないでしょうか。まぁその頃シャネルはポール・イリブにぞっこんになっちゃう訳ですけども(笑)。

ヴィスコンティが馬主から足を洗った戦後、逆にブサックやロトシルト男爵と、ウェストミンスター公爵、さらにはダービー伯爵が接近していくのも面白いです。
ダービー伯の牝系 Schiaparelli の娘にロトシルト&ブサックの種牡馬を付けた馬に Chanel なんて名前を付けたり(その娘がメジロの基礎牝馬*シェリル)。
ブサックの牧場で Hugh Lupus なんて名前の馬が生まれたり(これが結局 Tourbillon 父系を守る)。

む、何だかまとまってないな、後は頼んだ(ぉ

URL | さ #KFnQoIb2

2010/08/16 20:26 * 編集 *

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