有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、或いは反逆のドゥ・ロワイユ=デュプレ。
世界七帝国のカラクリを実際に検証してみた
 まぁ、ただの座学ですが。

「世界七帝国の一つ」欧米列強、徳川政権下の日本を認識@asahi.com

 この話が出てるのは18世紀後半というかまぁ大黒屋さんなのでエカチェリーナ期な訳ですが、その時期というと勿論、神聖ローマ帝国がまだ名跡を残していた時代ではある、ってのはまず頭に入れないといけないかと思われます。で、神聖ローマ帝国にしても或いはロシア帝国にしても、欧州において当時「帝国」を名乗っていた国は、それをアウグストゥスを祖とするローマの帝冠の後継者として名乗っていた、みたいな事情はありました。ただ、アウグストゥスというとやや語弊があるかもで、もちょっと言えば「キリスト教帝国としてのローマ」の後継者を名乗っていた、と言っても良いでしょう。その上で、「キリスト教帝国としてのローマ」というのは、「神の国を実現するための、地上の国」であり、そのために諸族の王侯を睥睨する存在、という理念を帯びます。まぁ宗教改革の洗練を経た18世紀にもなると、んなもん完全に建前論ではあるんですけれど、少なくとも、彼らが未だ「ローマの後継」を僭称していたというのは事実であった、と。

 で、思うんですが、そういうパラダイムのもとに「帝国」という言葉を意識していたのが18世紀後半の現況であったとするならば、往時の欧州人における「帝国」像は当然、現代的なそれとは違う形を帯びるものではあるでしょう。要するに、国家が「何がしかの天の理をベースに、異なる部族を結んでいること」を王権ロジックとして打ち立てていることみたいなのが「帝国」の第一義であり(異なる部族といえば、ロシア皇帝の号は「全ルーシのツァー」である)、例えば後の「ナポレオン帝国」や「大英帝国」のような実力本位で多文化の上位に君臨する帝国像みたいなものとは必ずしも被らなかったのではないかと。余談ながら、そういう意味ではナポレオンの意義ってのは、市民革命による近代化された価値観をベースとした「実力本位」の生々しくかつ合理的な世界のあり方を欧州全体に敷衍したこと、にあるのかも知れないなぁと思ったり。

 では、そんな往時の欧州人が異教、ローマ風に表現すれば蛮族(笑)の国家に対して「帝国」と認めるロジックがどうであったか、みたいな辺りに本件のカギはあるのかなぁと思われます。その上で、王権のロジックが大事であって国家の規模は二の次であった、それと、ある程度異なる文化を持つ諸邦に宗主権を持っていた、みたいな辺りが問われるのでしょう。そうした場合、チンギス・ハンを神聖化したモンゴルの後継を称するムガールや清朝、ムハンマドの後継者たるカリフの地位を継承したオスマン朝などは、まぁ普遍的な王権ロジックによる「帝国」として、規模以外の部分でも相応しかろうかと思われます。あと、七つ目の帝国となるペルシャ(ガージャール朝)は、18世紀前半の梟雄ナディール・シャーが大暴れして切り取った領土をある程度回収しつつ、余り聖俗の結びつきは強くないものの、シーア派でまとめている感じ。
 一方で日本はというと、戦国において織田信長以降、天下人が自身を神格化するような動きが発生しています。この流れにおいて、恐らく外見的には、ディオクレティアヌス辺りの古代的皇帝崇拝と似たような性質を帯びる王権のロジックが存在するように外国からは見えたのかも知れません。ただ、実態としてはその神格化は神道をもとに行われており、その司祭の長としてミカド(現代は天皇という)が存在していたのだから、ある意味中世カトリック的な性質も織り交ざっていたようには受け止められていたのでしょうが。いずれにせよ、そうした王権ロジックの上で、彼ら天下人たちは領邦国家的な日本の大名をある程度纏め上げた存在であったことから、江戸初期くらいに鎖国で退いた側の記憶としては、「帝国的」なものを本朝に見出したのかなとも。

 ただ、この記事において留意しておくべきなのは、要するにこういう情報ってのはロシアという「帝国」のロジックを守る側の国のものであり、この国において「帝国」の立場を重視することがメリットであるからこういう扱いになるのであって、上述したように宗教革命でプロテスタントはある程度宗教分離に移行をはじめ、啓蒙主義が従来の王権論を克服しつつある欧州にあって、余りTo-Dateなパラダイムではない、ということ。実態として、19世紀初頭にはナポレオンによってこのパラダイムは止めを刺されてるわけでして。だから、ぶこめとかで「ジョン万次郎はどうだったんだ」とか書かれてるけど、そりゃ時代も降ってしかもプロテスタントの連邦国家たるアメリカでんなこと言っても、みたいなのはあったでしょうねと。
 一方で、「帝国」として遇されていること、そしてそれには上述のように天皇の権威も絡んでいること(記事中の北槎聞略にも「皇朝」という言葉があることに留意)は、ある程度まで、江戸期に興隆した日本の尊王思想的な国家観を側面から支えるものになったのかも知れない、みたいな部分は考慮に値するかなと思われます。実際、この「七帝国」論は、水戸学の会沢正志斎辺りにも言及されてるらしいので。

◆因みに。
 本朝が大国と欧米から認識されていたか否かについては、元記事の議論とはあまり関係ない気はします。ただ、基本的には、コンキスタドーレスみたいなのが少々ちょっかいかけたくらいではビクともしない国家である、みたいなのは戦国期には既に気づかれてた訳で、その上で例えば唐入りみたいなハッタリをかましてたこともあって、結構厄介な国との認識はあったように思われます。ともかく、狭い国土の割にやたら文明化された人口が多いイメージはあったんではと。

◆標題は。
 ホッテントリメーカーより。

Comment

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「世界七帝国」を「三千世界」と読み間違えました(挨拶

これだけじゃなんなんで、本文に対しても浅学ながらコメントを(ぉ

>19世紀初頭にはナポレオンによってこのパラダイムは止めを刺されてるわけでして。
欧米列強が日本に開国を求めるのがナポレオン以後である、というのはこの辺りに関係があると言ってもよいのでしょうか?
(ああ、なんて適当なコメントだw;
NOBIE | URL | 2008/06/06/Fri 01:14[EDIT]
はじめまして
はじめまして
朝日の記事に「七帝国」とあるのに、独、露、土、印、中、そして日本と、六つしか
書かれていないので、調べているうちにたどりつきました
当時のヨーロッパでの帝国論は仰るとおりだと思います
どうも朝日の記事はセンセーショナルを狙って、ツッコミが甘く、かつ読者に不親切になっていますね
歴史や宗教関係で時々見かけます、こういうスタンス

「帝国」のイメージは時代によって違うのに。。
普通の人が「帝国」と聞けばやはり「強大」という言葉を思い浮かべる場合が多いかと思います。その誤解に漬け込むような書き方が少し引っかかりました

尊王思想的な国家観にもうなずけました
光太夫は伊勢出身ですから、天皇の存在は知っていたでしょうね
フーシェ | URL | 2008/06/08/Sun 01:46[EDIT]
NOBIEさま>
まぁロシアはそれこそエカチェリーナの時代からちょっかいかけてた訳ですし。
ペリーはある意味時宜を得た存在なんだろうな、みたいなことは思います。

フーシェさま>
はじめましてです。
私も最初は「エチオピア?」とか思いましたが、あの時期は近代エチオピアはあんまり確立されてないっぽいですね。まぁガージャール朝なんかも某現代の有名馬主のご先祖様とかの反乱があったりでゴタゴタしてた時代っぽくはありますが。
この時代というと、まだ"British Empire"みたいな表現もなかったんではと愚考します。
>光太夫は伊勢出身
あぁ、これは重要な視点ですね。
有芝まはる(ry | URL | 2008/06/08/Sun 13:05[EDIT]
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