有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、或いは反逆のドゥ・ロワイユ=デュプレ。
「天皇」号と武則天〜或いは何故唐から先は「ナントカ帝」と表記しないのか
 ちょっと競馬方面は微妙にヘコみ気味なので、アクセス稼ぎな天皇ネタ(嘘)を先出ししておこう(挨拶。

 「天皇」という称号は、中華においては674年に唐の3代目となる高宗が称していて、その後改めた記録が無いから、恐らくこの皇帝はその後終生それを名乗っている。しかし、高宗の後を継いだ中宗の一度目の即位について、舊唐書は「高宗崩,遺詔皇太子柩前即帝位」ということで、「皇位」ではなく「帝」が使われており、同じ在位について同時期、というか高宗時代の半ばから実権を握っていた則天の本紀では、その翌年の廃位について
二月戊午,廢皇帝為廬陵王,幽于別所,仍改賜名哲。己未,立豫王輪為皇帝,令居於別殿。

と記述しており、要するに高宗に加えられた「天皇」は一代限りの呼称であった。では、何故これが一代限りだったのだろうか、というのが今日のお話。で、実際のところ、これも則天紀の即位前段に答えがあって、つまり、この称号自体が則天の政治的な意図が隠れている、ということ。
高宗稱天皇,武后亦稱天后。后素多智計,兼盈文史。帝自顯慶已後,多苦風疾,百司表奏,皆委天后詳決。自此内輔國政數十年,威勢與帝無異,當時稱為「二聖」

 要するに、これは完全に当時武后と呼ばれていた後の女帝則天が「天后」という名の下に天子の座に並び立つための方便だった訳ですな。これによって、高宗の晩年において、世は高宗と武后のことを「二聖」と呼んでいたと。これによって「天皇」という名称がその次の代にはなくなる理由も明白であって、要するに高宗の次の代の后には武后が得ていた特権などが与えられるべきでもなかった訳であって、「天后」がいないならば必然的にそのセットであるところの「天皇」もいなくなって、「皇帝」の称号に戻された、と。そして、後に武后自らが帝位を簒奪するにあたっては、彼女は「唯一の天子」として、皇帝を名乗った訳である。
 現在の日本史における天皇号論争は、ある程度この唐の「天皇」号が適用されていた時代に本朝が同じ名称を採用したとする説を有力視している部分がありますが、ヒメヒコ制の伝統が根付き、実際前後200年弱にわたる「女帝の時代」の只中にあったわが国が、この「女権を拡大するロジック」の君主号を採用した、というのは確かに物語的には相応の必然性があったかも知れない、なんてことも。まぁ実態としてその前に「大王」号が「何時まであったか」を示す証拠が曖昧な気がするので、なかなかこの辺りが答えになるのかは難しくもあるのだけど。

 さて、そんな武后の野心からはじまった唐の「天皇」号であるが、これを採用した際に、自分達の称号を架上するために、同時にワンセットとして先祖の追号を行っていて、これが、後の歴史家にとってやや厄介な結果を招いていたり。つまり、唐の初代と二代の高祖(李淵)と太宗(李世民)について、前者を「武皇帝」から「神堯皇帝」に、後者を「文皇帝」から「文武聖皇帝」に変更している。
 ここで、高校世界史の資料集にある系図などを思い出していただくと、中華の皇帝については漢〜隋までが「○帝」であり、唐〜元までが「○宗(祖)」であり、明以降が「○宗(祖)△△帝」である。うち、明代以降の「△△帝」は、元号が一世一元になったので、それを帝号として採用しているのだけれど、隋と唐で「○帝」=諡号と「○宗(祖)」=廟号とで断絶している。そして、高祖と太宗の二代の変更前は、明らかに李淵は「武帝」であり、李世民は「文帝」だったのである。そして、則天皇后こと武照という女性が唐において権力の座に無縁なまま唐が続いてやがて滅亡していれば、間違いなく後の史家は唐の皇帝の年代記を正史に残す際に「(高祖)武帝→文帝→……」というタイトルで本紀を綴ったであろう。ところが、ここで「諡号をリネームする」という大技をこのネーミングオタクとして定評のある女傑が使ってしまったことにより、若干それが混乱を招くことになった。更に悪いことに、もともと「武帝」と「文帝」がいる状況で、そのうちの片方を「文武帝」にしてしまうんだから、結構混乱するところではあるだろう。まぁ李世民はそれくらいの顕彰をされてもいい傑物ですが。
 そして、高宗に対して諡号が付けられると、更に混乱が増すことになる。武后が自らの夫に対して送った諡号は、まんま自身の称号であった「天皇」だったのである。こうなると、諡号自体が結構無意味化という状況を免れない。こうしたネーミングの混乱の中、中華の皇帝は、死後は従来のスタイルとしての諡号ではなく、比較的それまでは限定的な文脈でしか使われていなかった廟号で呼ばれるのが一般的になったのである。そして、オフィシャルな文脈から退場した諡号は、顕彰の意味合いを込めて冗長化の様相を呈するようになり、唐の中期以降は「天皇大弘孝皇帝」のように七文字に拡大し、明清期にはもう日本書紀における本朝の和風諡号に近い、非実用的なものと化していくのである。

 唐朝は則天の死後、彼女のネーミングオタクとしての産物である則天文字を廃し、四文字元号を廃し、地名を元に戻し、彼女から「皇帝」の称号を廃し、「天皇大帝」と諡号を受けた高宗に劣後する「則天」という諡号を与えた。そうして、漢の呂后に類する「中原の善き悪女」の政事を実現し、盛唐の栄華の礎石となった女性は、歴史において一歩引く存在となった感はある。しかし、我々が歴史の資料集の巻末の系図を見て、「○帝」が唐から「○宗(祖)」に変わることに気がつくとき、その裏には中華史上無二の女傑の大いなる野望があったことは思い出されて然るべきではないかな、なんてことを思ったり。

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