聖徳太子の政治的実績 
過日のエントリの続きというか補足というか。
書紀は摂政としての聖徳太子に「萬機をこれに委ねる」とするが、そこに微妙に後付け的感覚があるのは確かである。というのは、そうした場合、神功紀のように「摂政としての太子」を主語として事績が記録されるはずなのだが、推古紀を読んでいくと、必ずしもそうではなく、例えば仏教興隆の詔のくだりは、
詔皇太子及大臣、令興隆三寶と、推古を主語としている。つまり、書紀の基本スタンスは、あくまでこの時期の統治者を推古と看做しており、この君主を「お飾りの女帝」と考えるのは、文脈的な観点からは必ずしも適切ではない。少なくとも、空位の摂政たる神功のような指導性を書紀編者は太子には見出していなかったのだろう。
ならば、聖徳太子を何故書紀が「摂政」として史書に残したのか、を思うに、自分は比較的「ボトムアップ的」な心性によるものだと考えている。後世でもある程度巷間の信仰厚い英雄や偉人について、本朝では死後の官位などで顕彰することはよくあるし、またヤマトタケルなどに至っては、風土記においては「倭武天皇」と天皇号すら受けている。これは、ヤマトタケルに比される英雄が実際に大王として即位したと見るよりは、巷間の声望をうけて後付的な顕彰として尊称を架したと見るほうが適切だろう。そのような民間信仰を王権の文脈に取り込むことで、中央の権威を保つ、というやり方である。一方で、「太子」については、隋書にこの時期に世子制度の存在が明記されてることから、聖徳太子が後日の皇太子的ポジションに位置づけられていたと見るのが穏当と思われる。
その上で、書紀の記事を虚心で細かく見てると、推古朝において「皇太子」が主語として記される事績ってのはさほど多くなかったりする。十七条憲法を親筆したこと(12年)、勝鬘經や法華経の講義を行ったこと(14年)、神祇の司祭を行ったこと(15年)、片岡山で聖者と出会った話(21年)、馬子とともに天皇記・国記を作ったこと(28年)くらいであろうか。逆に言えば、これ以外のことを書紀は「特筆」してはいない。30年近い摂政在位期間を思うと、やや寂しくある。そして、その中で、十七条憲法だけは「親筆」として、全ての条文が引用されてることを思うに、書紀編者としては、聖徳太子をあくまで「十七条憲法を書いた人」として強調したい意図が窺われる。逆にそれ以外については別に偉大な政治家として特に大書してるとも思われない。例えば、別に書紀は小野妹子や隋の返使である裴世清辺りと太子が何か交流したことなんて話は一切伝えていないのである。
で、この十七条憲法についての偽作説も聖徳太子非実在論では語られるのだけれど、個人的には
「憲法の部分を全く一から後世の編者がでっち上げた」
というのもちょっと考えづらいかな、みたいな気がしなくない。要するに、上に書いたとおり、書紀編者は別にそこまで聖徳太子の政治的事績を思い入れ満点に紹介しているとも見えないからである。それならば、むしろ神功〜仁徳や継体辺りに対する叙述の方が「名君色」を演出する意図を感じる。個人的には、十七条憲法が聖徳太子の時代に制定され、恐らくその主導も太子自身である一方で、後世の法理から見て時流に合わない叙述や古い表記の現代化を行ったことによって「偽作的」な潤色が入ったのだろうと思われるが、それとて限定的なものであろうかと。その上で、この件について格別に大書されているのは、律令国家たる史記編纂時の国家が、その拠って立つ「法」を重視する文脈で巷間の聖徳太子の権威を借りたのではないか、とも推察される。要するに、この辺りで虚構性があるとすれば「太子が憲法を制定したことの正否」よりも「史実の推古朝にあって、その憲法がどの程度重要なものだったか」にあるのではないか。
この辺り、ちと興味深いのだけれど、管見では現代の巷間において聖徳太子の事績として最も特筆すべきは「遣隋使」とされるのではないか、と思っている。要するに、隋書にある「日出づる処の天子」云々が、聖徳太子の「シンボル」とされている、と。それは、近現代の世界がよりグローバルであり、そういう「外交」に着目した部分がよりキャッチーに見えるから、ってのもあるだろう。しかし、この遣使について、書紀は主語を省いた形、つまり「天皇の政策」として記しているのである。無論、推古朝の上宮皇子がある程度の政治参与を行っている前提に立てば、無関係だったとは言えないだろう。また、「タリシヒコ=ヒコ=男性」という近代以降の見解もここでの太子の存在感を強調する方向に動いた、ってのはある。しかし、少なくとも書紀は「遣隋使を送った人」として聖徳太子を特筆している訳ではない、みたいなのは知られててもよいかなと思われる。この辺りのミスマッチが、「現代の聖徳太子」を巡っては存在してるのかな、と。
因みに、中世の人士においては、この辺りの書紀の機微は恐らく正しく解されており、それ故に御成敗式目や建武式目といった中世政権の基本法はそれぞれ17条や51条(17の倍数)で記述されていると思われる。


コメント一覧
なんつーか「スーパー摂政」というよりは「大博士」っぽい役割だったんじゃねーのって気はなんとなくするんですけどね。
あと人物としては本人よりも息子さんのほうがだいぶ気になる。これも本当に息子さんかどうかはわからんけども。
わむ>
どもです。まぁそういう感じでしょうね。
仏教とかは恐らく経典レベルで分かる人の方が少なかったので、ある種マッド・サイエンティスト的に見えたりもしたのかも、なんてのは流石に妄想ですが(笑)。