01« 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.»03

殿下執務室2.0 β1

  : 

有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

鼓腹撃壌な世の中ならいい、のではあるけど。 

転居することの大きな負担と千早お誕生日おめでとう@有村悠氏

 んー、何かどうも読んでてげんなりとしてしまう面もある。
 確かに、転居におけるリスクが相応に存在するのは事実だろう。しかし、どうもこの論調自体が「流動性の拒絶」みたいなニュアンスに受け止められる面はあるんだよなぁ、と。要するに、「何かリスクテイクしてまで幸福になる方法を模索しなければならない状況こそが、不幸である」とするパラダイムというか、鼓腹撃壌至上主義というか。それはつまり、「流動」を選択しないことが「幸福」に繋がる、という考え方であるようにも。
 一方で、若干視点を変えると現代の日本の問題として、自分の中で「日本人に根強い『流動性の拒絶』が、現代においてある種のミスマッチを引き起こしていること」に関しての問題意識とかはあって、例えば雇用流動性を下げる終身雇用システムが新卒至上主義を産んでロスジェネを苦しめてる、なんてのはその典型。また、パラダイス鎖国的な「日本人が『内に籠る』」ことに起因するような問題なんかも、ある意味日本人の「流動性」に対する耐性の弱さのようなものを背景にしてる、みたいな考えもあったりで。そんな中で、ロスジェネど真ん中で恐らくその時代の被害者を誇らしく自認するような立場の人から「流動性の拒絶」に対して肯定的と取れるような議論を目にすると、どうも救い難い自縄自縛感を感じずにはいられんよな、とも。何というか、自分の提示している「幸福モデル」が、巡り巡ると自分を幸福にしないシステムの支えとして機能している、みたいな。
 その上で、ある種の「幸福モデル」として流動性を下げることは、現状ネガティヴに働いてる面も多いのだけれど、人が一度獲得した「幸福モデル」を変更するのは難しいのかな、との思いもある。余り「農耕民」「狩猟民」的な民族性モデルが妥当なのかは分からんけれど、「農耕民的」なパラダイムの積み上げられた歴史なんてものはあったりする訳で。そうなると、来るべき世代が、新しい幸福モデルを意識して行動することを啓蒙するよりは「流動性の高い社会は日本人を幸福にしない」という前提条件で、いかに流動性のない状態で、この国が世界に伍して持続的な国家として維持できるか、みたいなアプローチでやれる施策を探していくなんて手もあるのかなぁとも。ただ、そっちのが明らかに隘路なんだよなぁ。長期的には、リスクテイクによって幸福を模索する人を育てる一方で、そういう人たちに「リスクテイクを是としない世代が存在する」みたいなことを意識させて、そういう人たちを幸福に領導ことが「リスクテイク出来るエリート」の役割である、とする道徳教育を徹底するようなマクロモデルが必要なのかも知れない。これはこれで、微妙に絵空事っぽくもあるが。

◆以下、Tom Fool の余談(謎)。
 ところで、元のdankogai氏のエントリ辺りから自己責任議論が喧しいが、「自己責任論」に対抗する言論を打つときに、ある程度それが自己以外の何かへのバックパシングなのかそうでないかって辺りは、ちょっと気にして読む部分ではある。詰まるところ、それが不明確なケースはもとより、誰か明確なバックパシングの対象があるとしても、人間(ないしはその延長としての「権力」とか、その他もろもろ)が行う判断について、その人間が責任を持てる範囲なんてのは、限定的なものであろうという気がしている。例えば「世の中を変える」といえばカッコいいけれど、「世の中を変える」ことは、確実にその変化が喚起するトレードオフによる無辜の被害者を生む。ただ、「世の中を変えた」偉人なりキチガイなりに徒にその責を負わせても、何か出てくるものではなかろう。人が何がしかの責任を常に背負えると思うことこそが、(ラディカルな自己責任論と同様な)ある種の人間性への過信に見えたり。
 一方で、何がしかの苦しみに対して、最終的に何かアトリビュートするものを求めても得られない、というのは、もう一つの大きな苦しみではある。その苦しみは、詰まるところ半径ワンクリック相当の距離感のコミュニティにおいてしか慰撫されざるものであろう。「自己責任」というものは必ず大なり小なり存在するものであるには違いないが、「自己責任論」の名において上記のようなコミュニティの作用から個人を閉ざすことになるならば、それは慎むべきものだと思われる。反面、アトリビュートするものを無闇に追及するバックパシングには、そういう「コミュニティ」に帰ることが出来ない悲しさを感じる部分もあったりするものである。
スポンサーサイト
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 社会問題

ジャンル: ライフ

国内雑感  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

優駿3月号の特集など読みつつ。 

 過日、民業圧迫だとDisったのでフォローするわけではないが、優駿。
 3月号は例年、名勝負特集みたいな感じでここ数年推移している気がするのですが、今年はベタに「感動のレース」と来ました。全体的には「ベタな好レース」がかなりバランスよく取り上げられている印象で、恐らくディープから競馬に入った人たちにとっても良い教材となるような好特集であったかと。そんな中で、タニノウォッカのダービーを始め、全部2005年以降の馬のネタで埋めた島田明宏はそこで正座な。つか、せっかくライター発掘特集とかやってるんだから、わむに一本ぐらい書かせろよ、みたいな部分はツッコミとしてあったけれど、それはまぁ。実はこっそり編集部枠で書いてましたというオチも期待したいが、93年京都大賞典とか無いので多分そういう話ではなさげ(笑)。
 で、まぁ色々お気に入りの取り上げられてるけれど、もうちょっと拾遺してみたいレースもあったり、みたいな所で、無いなら自分でちょくちょくエントリを連載で書いてみるか、と挙げてみたのが下の10レース。基本的に「ディープ以前」「海外のレースは含まず」「自分が見た範囲」くらいで入れて、さしあたりG2以下はオミットの方向で、あとはネタっぽいレースも差っ引いてくと、くらいの。
92 天皇賞春    メジロマックイーン 世紀の2強対決
93 ダービー    ウイニングチケット 当代最高の名手の攻防
94 安田記念    ノースフライト   黒船を斥けた名牝
94 菊花賞     ナリタブライアン  圧巻の3冠パフォ
95 宝塚記念    ダンツシアトル   屈腱炎に克っての栄光
96 スプリンターズ フラワーパーク   着差1cmの「奥の手」
98 菊花賞     セイウンスカイ   堂々たる、颯爽の逃げ
99 有馬記念    グラスワンダー   栄光の世代の大勝負
01 ジャパンC    ジャングルポケット 王者を沈めた瞬間
03 有馬記念    シンボリクリスエス 最後に魅せた圧勝劇
 と、挙げてみたのだけれど、全部書くの結構ダルい(苦笑)。
 てな訳で、半分の5本くらいに絞りたいのですが、どれがいいか、複数回答可でコメント欄などに書いて頂ければと。1週間くらい受け付けて、特にご意見が無ければランダムに選ぶ方向で。また、上記以外でもネタ的によさげなのがあればリクエストして頂きたく思いますが(大体上記条件に近い範囲で、重賞までなら、という範囲で。優駿既出のレースはパス)、有芝が書ける範囲で善処くらいになるかと思われます。
 分量としては、1レース1000文字程度くらい、になるかなぁ。あんまりもっさり書いてもナニですし。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 競馬

ジャンル: スポーツ

タグ: 競馬 
国内競馬  /  tb: 0  /  cm: 20  /  △top

*カジノドライヴ雑感 

 今週のハヤテは面白かったけれど、ある意味ブラックな面もありましたね。
 ヒナギクがおばさんになっても、じゃないけれど、世に罷り通る八百万のヒナギクの婿たちも、28歳のヒナギクと共に暮らせるかどうかをよく考えた上でヒナギクは俺の嫁と言え、という伝え手側の極めて説教くさいメッセージであると今回の話は素直に解釈しました。つか、バックステージの標題的にもそうとしか思われん(ぇ。ある意味、時間の残酷さというか身もフタもなさというか。関係ないけれど、KakuTailの「未来」@とかちを麻智さんに見せたところ、「そして20歳になったらこの娘が母親になっちゃう、とか思うとウルウルしちゃうよね」というこれまた素晴らしく身もフタもない感想を頂きました。それなんて辻ちゃん?
#でも、美希は普通に18くらいでPとの間に子どもが出来てそうだ。アイマス恐るべし(笑)。
ともあれ、個人的には10年前のユキヒナ借金返済珍道中話よりは、10年後に雪路ばりの粗野さを身に着けたおばちゃんヒナギクが活躍する外伝を火田クンには書いて欲しいなぁ、なんてことを考えました。少なくとも、20代後半くらいだったらまだ余裕で独身だろうな>ヒナ。仮にハヤテと恋人エンドになったとしても、その年までに結婚してる気が全然しないぞ。

 で、本題の競馬話。

カジノドライヴのこと@DREAM SCHEME

 個人的には海外行ってもそんなに悪いとは思わないんだけれど、日本の競馬場で何らかの物語を残していない馬、という気持ちはどうしてもあるよねぇ、とも。新馬の強さは水際立ってたけれど、それだったらサクセスブロッケンだって変わらんわけで、2歳500万平場史上最強パフォというべきレースを見せたフラムドパシオン辺りと比較しても、インパクトとしてはやや弱い。まして、フジキセキの陰のライバル的な存在感を見せた*スキーキャプテン辺りには現状及ぶべくもないかと。その意味では、現在のこの馬を「日本馬」としてベルモントで応援する、みたいな気分ではないのは事実。血統表の美しかった Mineshaft の産駒として注目したい、くらいには思うけれど。
 そういう意味では、仮にこの馬がデビュー戦でいきなりヒアシンスSを使えるようなルールになってなかったのは惜しまれるなぁ、みたいな部分は感じられた。例年好メンバーが揃いやすく、しかも今年は恐らくダートでは世代最強クラスが前日の準オープンを上回るタイムで走るような結果だっただけに、これを相手にデビュー戦で勝ち負け出来るようだったら、それは「衝撃のデビュー戦」として、即海外を主張する理由としては相応になるものであっただろう。勝ち負け出来たらだけど。個人的には、ある程度上位条件で勝負になると踏んでる馬をいきなり500万やオープンで使うのは(当然、フルゲート割れの場合という条件で)ありにしてもいいかとは思う。前から言ってるけれど、そういうギミッキーなデビューってのを演出することは、ある程度このクラスの若駒がPOGなどで注目されがちな現況において、興行として盛り上げるものになるのではなかろうかな、と。
 一方、個人的にこの馬について気になるのは
「この馬がどのくらい海外にいて、戻ってくるつもりなのか」
みたいな辺り。例えばジャムシードやサンデーピクニックなど、海外の転厩馬として来年以降日本で再び見る存在、として考えるならば、帰国後どういうレースをするんだろうか、みたいなことには興味を覚えたりする。単純にベルモント出て戻ってくる、ではつまらないけれど、勝っても負けても1年くらい色んなレースを使って、ある程度向こうでのデータを作った上で日本の重賞戦線で彼我のレベル差の物差しとして活躍してくれるならば、それはそれで印象的な馬になるんじゃないかな。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 競馬

ジャンル: スポーツ

タグ: 競馬  海外遠征  番組論 
国内競馬  /  tb: 0  /  cm: 4  /  △top

運がないなりの、プロデュースの重要性 

ダイワスカーレット@日刊「Myself」

 根本的な部分としては、
「強い馬とは、2ちゃんでラキ珍と呼ばれる馬である」
みたいなのがある。ディープインパクトだってテイエムオペラオーだって、運がなければあそこまでの実績は残せません。ただ、詰まるところ「運は実力、運がないなら倍の努力をしてこそ実力」ではあるのだろう、みたいなのがあって、そこにダイワスカーレットの限界はあるのだろう。ある意味、今後ともドバイのレース選択に象徴されるように、距離路線や得意分野が必ずしもマッチしないタニノウォッカとのガチな勝負を行う機会が非常に少ないように思われる。そんな中で、彼女がタニノを「超える」には、もはや何回直接対決でタニノを降しても全く意味はなく、彼女のダービーに匹敵する勝利を何処かで得るしか方法がないのである。そして、ダービーを凌駕する舞台というのは、実際それほど存在しない。その意味では、ダイワスカーレットにとっての最大の不幸とは、
「タニノウォッカがダービー出走という大バクチを打って、しかもそれに勝ってしまったこと」
に尽きるのではないか。単純にいえば、2007年にダイワスカーレットの成し遂げた記録というのは、同じく有馬2着馬である1994年の*ヒシアマゾンに匹敵する、には違いないだろう。まぁ相手がマツリダゴッホである有馬は少し落ちるが、古馬牝馬相手にG1を勝利している点ではアマゾンを上回るし、ご丁寧に年の緒戦で牡馬に負けてる辺りもシンクロしてる。もちろん、レースにおける華という意味では*ヒシアマゾンに及ぶべくもないが、それでも、3歳の実績として、比肩すべきものとは評されただろう。もし、タニノウォッカがいなければ。

 ともあれ、その上で、この馬がタニノウォッカに伍する「印象」を残せなかったとすれば、その側面的な理由は詰まるところ、タニノに伍するプロデュースが出来なかったこと、にあると思われる。要するに、手としては、トライアルからしゃかりきで1着を取りに行くことによって、とにかく「連勝の数」を伸ばすか、逆に何処か早い段階で、タニノのダービーに匹敵するタイトルを狙う判断に切り替えること、であっただろう。例えば、ダイワスカーレットのキャリアにおいては、チューリップ賞で持ったままのタニノウォッカに負けたトラウマってのは結構大きいと思う。あれはあれで、タニノの脚を測りにいったからの結果ではあったと思うんだけれど、そういうレースを選択したことが、結果としてこの馬のキャリアにおいては「ミス」になっている感がある。その上で、連勝の数をここでひとつ損した上で、オークスの比較的マイナーなトラブルで回避した後、アメリカン・オークス辺りに色気を持たずにそのまま休養に入ったこと。勿論、そこ出ててなおかつ秋も成績残せたかというとどうかという面はあるが、結果としてこの牝馬の連勝数が4にとどまったのは如何にも連勝数としては少なかった。それならばそれで、例えば秋天やマイルCSを目指す手はあったかも知れない。しかし、わざわざ馬主としても兄貴がとれる可能性のあるレースで妹に妨害させることなどはしたくなかったのだろう(自分としては、これをダスカの「2番目の不運」として挙げる)。

 結果として、ダイワスカーレットの強さをプロデュースすること、という面で陣営がやや失敗した感は否めない。無論、強いことはファンが分かって頂ければ良いので、ただ淡々と勝ちを重ねていけばいい、という考え方はあるだろう。実際、チャンピオンの称号は獲得できているのだし。ただ、自分としては、やっぱりちょっと勿体ないことをしてるなぁ、とは思うし、タニノウォッカのダービー制覇という「不運」があったならば、そこから目を逸らさずに切歯扼腕しつつ「如何にギミック的にウオッカよりも強い印象をファンに与えるか」に対して陣営は策を重ねるべきではなかったか、みたいなことは考えてしまう。
 要するに、ダイワスカーレットは己の不運に対するカウンターとしての「必死さ」を編み込まれていないので、チャンピオンとして軽い、のだろう。
 ある意味、ディープインパクトがハーツクライに破れ、天皇賞でレコ勝ちする辺りまで抱えていた軽さに通じるものがある。その上で、ディープインパクトのように、その軽さが芸風になってしまうような天衣無縫の破天荒さもないのならば、やはりそれを埋めるのは陣営の仕事なのではないかとも。
 その上で、ワールドC挑戦ってのはそういう意地を陣営自体が捨ててないことを示すものとして評価していたが、今回フェブラリーSを回避した後に、目標をヴィク狸に変更というのは、またこういう選択肢になってしまったか、とがっかりした部分はあった。ある意味、乾坤一擲の勝負として、ギリギリまでドバイ行きを選択肢として残してほしかったのだが。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 競馬

ジャンル: スポーツ

タグ: 競馬  ダイワスカーレット  ウオッカ 
国内競馬  /  tb: 0  /  cm: 4  /  △top

競馬新聞の環境とか 

ホースニュース休刊に思う@白線の内がわ
頭を使え@嵐猫
競馬におけるwebの縦進性についての話など@DREAM SCHEME
ショウナンアルバはスプリングSへ:その他@Brain Squall

 個人的には、各エントリのそのものより、「馬柱vsPP」的なものに最初、興味を持った。
 根本的に言えば、グロスの情報量としては、PPの方が多い。まぁある意味それは当然で、アメリカの競馬新聞のほうが明らかに紙幅も大きいから、ということであろう。また、レース情報として公式に公開されている情報でも、ある意味アメリカの方が多いかも知れない。例えば日本では全馬の400mごとの通過タイムなんてものは出してくれないのだから。その上で、馬柱は「情報密度」をウリとしている。要するに、ある程度一覧性を保って、一枚のページの中で情報を集約化する、みたいな。ただ、ある程度ネット時代になると、グロスの情報ってのがPCなり携帯なりで結構いくらでも見られるという意味で長足の進歩を遂げており、反面、日本の競馬メディアが培ってきた「密度」に関してはある程度これ以上詰め切れないみたいな辺りで、なかなか難しいところがあるのだろう。そうなると、馬柱のよさってのは「(紙質も含めて)書き込みがしやすい」とかになるのだが、これだけで400円以上の値段に値すると判断されるか、って言えば、なかなか簡単なものではないだろうなぁ、とも。あと、基本的にアメリカとかだと、PPもそうだけれど、例えば Racing Post や Netkeiba なんかが提供してるレベルでの詳細なDBはネットでもタダでは出してないよね。一方で、日本では既にスポーツ新聞からがより安値で類似のサービスを提供してたりする訳で、そういう意味で日本の競馬新聞は結構厳しいレベルでの競走、じゃなくて競争を強いられてはいるかな、と思う部分はちょっとある。
#イギリスだと、RPもSLも「スポーツ紙」であって、DRFや本朝の専門紙とはやや事情が違うか。
#香港も、基本的にはスポーツ紙に競馬メディアが集約されてる風味。

 そういう処に輪をかけてるのは、実はJRAでもあるな、と思う。JRA-VANとかにしても「優駿」にしても言われることなんだけれど、確かにあれらは素晴らしいレベルのサービスなんだけれど、ああいう高いレベルのサービスをある程度安価にJRAが提供してしまっているってのは、実は結構な民業圧迫だよね、みたいなお話。これは「海外競馬」とかが出てた時に編集の人と話題になってたんだけれど、「優駿」がある程度採算度外視で値の張るクオリティの高い写真とかをバンバン載せた誌面を作ってるので、同じような「読ませる」路線の競馬雑誌を採算ベースで作るのは結構難しいものがあると。と、ちょっと話が逸れたけれど、ある意味そういう状況を更に突き詰めたものとして、JRA公式サイトの出馬表の充実、みたいなのがあると思う。何のかんの言って、とりわけ多数派のヌルいファンだと恐らく Netkeiba すらヲタサイト的なダルさを感じるであろうことは想像に難くなく、JRA公式しか見ないんじゃないかと思うが、そういう客層にあんなものをタダで提供したら、そりゃもう400円以上出して週末に専門紙買うのがバカらしくなっちゃうよなぁ、と思うんではなかろうか。そういう、ある種の「デフレ不況」を胴元側が演出してしまった感も無きにしも非ず。

 これが良いことか悪いことか、というと、やっぱり余り歓迎されない面もあるかな、とは思う。
 というのは、多くのスポーツがそうであると思うが、競馬ってのはかなり「語り部」を要求するスポーツではないか、と思う。ある種のデジタルな結果の蓄積だけでは実態を推し量るのが難しいジャンルのスポーツであるし、300年も続いていてなおかつ馬という動物を扱う辺りで、なかなかリニアな進化をしているスポーツでもないので、物語性の中にどうしても魅力を見出さないといけないスポーツではあるだけに。そうなると、優れた語り部の存在が、スポーツの魅力を左右する面ってのがある程度存在するのではないかな、とも。そういった中で、ある程度民業ベースで「語り」を保つのは結構重要であり、民間の競馬メディアが食っていけない状況で、ある程度専従的な競馬の「語り」のパイが結果として小さくなることは、長い目で見てこのスポーツにとっての損失にはなるのではないかと思う。まぁ確かに、そもそも民間でも競馬の語り部がしがらみその他諸々の事情で、余り書きたいことを書けてるわけではないとか、そういう問題はあるんだけれどもね。……とまれ、いくらネットで「アマチュアの語り手」のレバレッジの可能性が広がってるとは言え、やはりある程度「プロの語り手」が存在感を示せる状況は必要だし、そもそも「アマチュア」が競馬に対して持ってる情報量が限定されているって意味ではアマチュア任せにしづらいジャンルではあるし、その意味で専門紙記者みたいな人の働き場が縮小することは惜しいものであるかと。
 そういう意味では、別にJRAのサイトで出走表出すなとはいわないけれど、こういう「競争の厳しい状況」を作っていることについてJRA自身が認識しつつ、ターフライターとしての競馬メディアの振興を、現状よりもてこ入れした形で彼らの施策として取り入れるべきかなぁ、なんてことを思う。具体的にあれこれと沙汰することはしないけれど、出来ることはそれなりにあるんじゃないかな、とも思われるだけに。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 競馬

ジャンル: スポーツ

国内競馬  /  tb: 0  /  cm: 8  /  △top

もし、イビチャならば。 

 東アジアのアレについて。

 個人的には、客席の問題については余程のことがない限りは、まぁやらせとけばいいじゃん、みたいな部分もあるのだけれど、ピッチの上で平気で乱痴気を起こされるのは結構困ったものだなぁ、とは思う。実際に怪我する選手が出てしまう以上は。しかし、ピッチの上の出来事であるならば、選手たちがある程度スポーツマンとして節度に欠いた行為を行ったことについては、そのチームを率いる監督の責任ではないか、とは思う。その意味で、現地の民度や国そのものを責めるのはある意味筋違いではあり、協会を責めるのも微妙にどうかという辺りで、日本人が今回の試合の件で最も強く詰らなければならないのは、相手の代表監督ではないかな、と。しかも、その監督は(少なくとも本朝から見て)サッカー後進国であるところの中国のインディジェナスな監督ではなく、(少なくとも本朝から見て)ある程度以上にまともなサッカー文化を持つ国からからわざわざ雇われた監督であることを考えるならば。

 そもそも、ペトロヴィッチお前、こっちの監督がイビチャであったら、あの試合終わった後にあの爺さんと目を合わせることが出来たか?と有芝は問い詰めたい。前後半90分にわたってノンストップで問い詰めたい。そういう「恥ずべきチーム」しか国際試合に出してしまったことについて、まずサッカー人として悔いるべきであろう。
 いやしくも中華のようなサッカー後進国、でありながら、今後このスポーツに関して巧くやれば洋々たる前途が開かれていると期待されるような可能性を秘めたサッカー国、の監督を務めるのならば、代表監督は単に目先の試合を勝つことだけを考えれば良い、という立場ではないはずだ。かつての本朝では「グラウンドはサッカーだけをやるところではない。人間としての修練の場である」と言ってサッカー文化の種を蒔いた外人監督がいた。勿論、オイロパ・マイスターを2度獲得した斯界の巨匠と比較するのは気の毒な部分もあるが、大なり小なり、こういう国でサッカーの監督をするというのは「人間を育てる」という要素が求められるところがあると思うし、その努力は「強化」という文脈である程度長い目の勝負を考えるにしても必須であろう。しかし、少なくとも昨日の試合を見る限り、ピクシーらと並んで「ズヴェズダの星」と称されるかつての名手がそのような努力をした形跡は認められなかったと言わざるを得ないのは、悲しいことである。敢えて言うならば、「選手を甘やかしてはいなかったか」と。出来ることならば、今後はああいうプレイを選手が行うことを厳しく戒めることで、はじめからこのような事態が起こらないように尽力してもらいたいものである(本当に欧米人の皆様におかれましては、華人を甘やかすのを程々にして頂きたい。こっちが迷惑するので)。

 岡ちゃんの会見について宇都宮氏は「もっと本音を出しても良かったのではないか」とコメントされていた。個人的には、余りそうは思わない。あんなプレイの後に、わざわざ現地の報道陣にこちらの本音を披瀝してやるべきものでもないだろう。ただ、同業者が仕事の不手際で迷惑をかけていることに関しては、指摘しておいても良かったのではないか、と思わなくはない。まぁ勿論、同業だから言いづらいという面はあるかも知れないが。それこそ、こちらの監督がイビチャであったら、表立ってではないかも知れないが、あの爺さんも同郷の同業者に対してかなりこの件についてお灸をすえるような言葉を向けたのでは無いかなぁ、と。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: サッカー日本代表

ジャンル: スポーツ

タグ: サッカー  代表 
サッカー  /  tb: 0  /  cm: 2  /  △top

老いてもなお、一つの風景。 

消えかけの信号@増田

 人生の結構長い割合をいわゆる「ニュータウン」と呼ばれる場所で過ごした身としては、なかなかしんみりとするエントリ。
 それにしても、自分の親たちはなぜに子供がいずれ独立しても二世帯で住むとは期待していなかったのに、郊外に規格の大きな家を建ててしまうのだろうかなどと考えてしまうが、冷静に考えれば我々が子供の頃に例えば自分の部屋すらなければ、それは結構な苦い思い出として残るものであるだけに、やはりどうしても、例えば子供が2人いるような世帯ならば、4LDKとかそういう規格の家を建ててしまおうとして、そうなると郊外に建てるしか選択肢がないとか、色々あったのだろう。今はそういう「実家」に2週に一度程度帰る生活をしているのだけれど、ある意味そういう部分で子供としての負い目みたいなのを感じつつ、みたいなのはある。一方で、うちのマンションに対して「狭い」と文句を言う親に対しては、いやぁ広くしてもいずれ子供出てくでしょ、みたいなことも思ったりもしつつ。
 一方で、現在親子3人で葛飾のような路地の狭い都内に暮らしつつ、時折そんな無駄に道幅の広いニュータウンに戻りつつ思うのは、案外ニュータウンという空間も、おそらく当初は予想していなかったような形態で、味が出てきているのかな、みたいな辺り。結果として「判を押したように作られた」街は、やはり自分が現在暮らしている場所に対して、ある種の非日常を提供しうる存在にはなっている、と思う。たぶん子供が物心ついたら、こういう場所が彼にとっての「田舎」の原風景となるのだろう。その上で、有芝が帰省するニュータウンとかだと、無駄にスプロールして大規模店舗が建ち並んでいるのだが、そこで買い物をしてると、意外なまでに自分世代かそれより下の親子連れを多く見かける。一体何処から湧いてくるんだこの世代、みたいな感覚はあったり。しかしそんな自分もベビーカー押してるわけで、まぁ基本的には自分と同じで、親元に時々帰ってきてる子世代なのかなと思いつつ。あるいは、遠くから車で来ている向きも多いのだが、要するに田舎ものにとってのハブとしてこういうインフラが機能しているのかな、なんてことも思わなくはない。
 確かに、街は老いている。
 しかし、そこがある程度でも「帰ってくる場所」みたいに思っている人がいる限り、その街はある意味命脈を保つのかな、なんてことも考える。団塊ジュニアのニュータウン族にとって、ニュータウンってのは、まだそんな場所、なのかも知れない。実際のところはケースバイケースというか、よくわからない部分はあれど。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 日記

ジャンル: 日記

国内雑感  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

聖徳太子の政治的実績 

 過日のエントリの続きというか補足というか。

 書紀は摂政としての聖徳太子に「萬機をこれに委ねる」とするが、そこに微妙に後付け的感覚があるのは確かである。というのは、そうした場合、神功紀のように「摂政としての太子」を主語として事績が記録されるはずなのだが、推古紀を読んでいくと、必ずしもそうではなく、例えば仏教興隆の詔のくだりは、
詔皇太子及大臣、令興隆三寶
と、推古を主語としている。つまり、書紀の基本スタンスは、あくまでこの時期の統治者を推古と看做しており、この君主を「お飾りの女帝」と考えるのは、文脈的な観点からは必ずしも適切ではない。少なくとも、空位の摂政たる神功のような指導性を書紀編者は太子には見出していなかったのだろう。
 ならば、聖徳太子を何故書紀が「摂政」として史書に残したのか、を思うに、自分は比較的「ボトムアップ的」な心性によるものだと考えている。後世でもある程度巷間の信仰厚い英雄や偉人について、本朝では死後の官位などで顕彰することはよくあるし、またヤマトタケルなどに至っては、風土記においては「倭武天皇」と天皇号すら受けている。これは、ヤマトタケルに比される英雄が実際に大王として即位したと見るよりは、巷間の声望をうけて後付的な顕彰として尊称を架したと見るほうが適切だろう。そのような民間信仰を王権の文脈に取り込むことで、中央の権威を保つ、というやり方である。一方で、「太子」については、隋書にこの時期に世子制度の存在が明記されてることから、聖徳太子が後日の皇太子的ポジションに位置づけられていたと見るのが穏当と思われる。

 その上で、書紀の記事を虚心で細かく見てると、推古朝において「皇太子」が主語として記される事績ってのはさほど多くなかったりする。十七条憲法を親筆したこと(12年)、勝鬘經や法華経の講義を行ったこと(14年)、神祇の司祭を行ったこと(15年)、片岡山で聖者と出会った話(21年)、馬子とともに天皇記・国記を作ったこと(28年)くらいであろうか。逆に言えば、これ以外のことを書紀は「特筆」してはいない。30年近い摂政在位期間を思うと、やや寂しくある。そして、その中で、十七条憲法だけは「親筆」として、全ての条文が引用されてることを思うに、書紀編者としては、聖徳太子をあくまで「十七条憲法を書いた人」として強調したい意図が窺われる。逆にそれ以外については別に偉大な政治家として特に大書してるとも思われない。例えば、別に書紀は小野妹子や隋の返使である裴世清辺りと太子が何か交流したことなんて話は一切伝えていないのである。
 で、この十七条憲法についての偽作説も聖徳太子非実在論では語られるのだけれど、個人的には
「憲法の部分を全く一から後世の編者がでっち上げた」
というのもちょっと考えづらいかな、みたいな気がしなくない。要するに、上に書いたとおり、書紀編者は別にそこまで聖徳太子の政治的事績を思い入れ満点に紹介しているとも見えないからである。それならば、むしろ神功~仁徳や継体辺りに対する叙述の方が「名君色」を演出する意図を感じる。個人的には、十七条憲法が聖徳太子の時代に制定され、恐らくその主導も太子自身である一方で、後世の法理から見て時流に合わない叙述や古い表記の現代化を行ったことによって「偽作的」な潤色が入ったのだろうと思われるが、それとて限定的なものであろうかと。その上で、この件について格別に大書されているのは、律令国家たる史記編纂時の国家が、その拠って立つ「法」を重視する文脈で巷間の聖徳太子の権威を借りたのではないか、とも推察される。要するに、この辺りで虚構性があるとすれば「太子が憲法を制定したことの正否」よりも「史実の推古朝にあって、その憲法がどの程度重要なものだったか」にあるのではないか。

 この辺り、ちと興味深いのだけれど、管見では現代の巷間において聖徳太子の事績として最も特筆すべきは「遣隋使」とされるのではないか、と思っている。要するに、隋書にある「日出づる処の天子」云々が、聖徳太子の「シンボル」とされている、と。それは、近現代の世界がよりグローバルであり、そういう「外交」に着目した部分がよりキャッチーに見えるから、ってのもあるだろう。しかし、この遣使について、書紀は主語を省いた形、つまり「天皇の政策」として記しているのである。無論、推古朝の上宮皇子がある程度の政治参与を行っている前提に立てば、無関係だったとは言えないだろう。また、「タリシヒコ=ヒコ=男性」という近代以降の見解もここでの太子の存在感を強調する方向に動いた、ってのはある。しかし、少なくとも書紀は「遣隋使を送った人」として聖徳太子を特筆している訳ではない、みたいなのは知られててもよいかなと思われる。この辺りのミスマッチが、「現代の聖徳太子」を巡っては存在してるのかな、と。
 因みに、中世の人士においては、この辺りの書紀の機微は恐らく正しく解されており、それ故に御成敗式目や建武式目といった中世政権の基本法はそれぞれ17条や51条(17の倍数)で記述されていると思われる。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 歴史

ジャンル: 学問・文化・芸術

日本史  /  tb: 0  /  cm: 2  /  △top

クリエイターと批評者の間。 

悲しいのです@cocoonP

 恐らく、cocoonPはカズマ氏がここ最近「MADに対する格付け/ネガコメ」の是非を巡って悩んでおられたという文脈もご存知の上で書かれてるとは思うので、やや釈迦に説法かも知れないのだけれど、「自己承認のために声を出して欲しい」ってのは、「ネガティヴなコメント」をフィルタできるものではない、とは思うのですよね。もうちょっと言えば、「観る側」の視点で、別にそんな非難とか言うつもりはなくとも、結果としてPの創作意欲を大いに減退させるコメント、ってのはあるんではと思う。例えば有芝は過日サーディPのエフェクトについて「わかむらPのフォロワー的」と書いたけれど、これなんかは読み方によってはPの間で鼎の軽重というか、格付けしてるみたいなネガティヴな捉えられ方される可能性はあったなぁ、みたいなことは考えたりもしてて。あと、ある作品に関して観る側が勝手に講釈をぶった場合に、それが作り手の意図してた作り方と全然違う場合、そんなもの読んで作り手は「自己承認」的な感覚を得られるの?みたいなのはある。そうこう考えると、賢しらな解説や、或いは熱烈な愛着をベタに語ることもケースバイケースなんかも知れない。むしろ、いい作品はさらっと動画の上に「GJでした!!」と書くのが回りまわって最も確実度の高い「お布施」なのかなぁ、なんてことも「観る側」的に思ったりもする。

 ところで、恐らくアイマスの「観客」、まぁ「見る専」と置き換えてもいいですが、ってのは、基本的にクリエイターがアマチュアだってのを意識する部分が大きい故に、ある程度プロ相手よりも気を遣う傾向はある気がする。要するに、落語家ではないが「あくび3つですぐに死ぬ」クリエイターがいることを前提にした上で、「あくびでクリエイターを殺す」ことに対しての罪悪感を感じる傾向は強いんではないだろうか。これがプロ相手ならば、死ぬ方が悪い、こっちはカネ払ってんだ、という話になるんだろうけれど、対価を得ずに娯楽を提供するアマチュアにそれを適用するのはある種の不誠実というか、「観客道」にもとる、と。
 で、この辺りで感想ブログの立ち居地が難しくなる部分はあると思う。
 つまり、ブログのエントリってのは基本的にはそれ自体「創作活動」な訳です。それ自体が自己本位というか、MADを作るのと同様な「自己承認の撒き餌」としてのレイヤもある訳で、その感想文の対象たる作品の作り手に対してという視線だけで書いてる訳ではない。その意味では、感想ブロガーってのはその段階で、「単なる客」ではなくなってるのですよね。ある意味、自分の創作物として人に読ませる批評を書く文脈で、上述のような観客道にもとるようなことをしでかしてしまうかも知れない。そういう立場と「単なる客」として見る立場の間の板挟み的な部分に、カズマ氏の悩みはあるのかと。
#誤解ならすまんです >カズマ氏

 その上で、現状のカズマ氏のように「距離をおく」ようなスタンスも一つのやり方かも知れないが、それは確かに寂しいというか後ろ向きかもと思わなくもない。
 そんな中で、MAD作者が感想ブロガーの語らいを受けたい/感想ブロガーがMAD作者に気兼ねなくエントリを上げたいのならば、ある程度、感想ブログの中の人たちを「アイマスMADの創作の仲間」としてみる必要があるんじゃないかな、という気がする。例えば、P同士で議論するならば、ある程度辺りの丁々発止な議論も、自分の能力を高めるためみたいな感じで受け入れられるだろうけれど、それに近い感じで「ただの客」と会話する用意があるか、という話。実際、プロレスなんかにおいては、実況アナはある意味その存在自体がもはやプロレスラーそのものに近い。感想ブロガーがそういうものだという視点で、彼らとプロレスが出来る関係を持てれば、Pと感想の書き手の関係は向上するのかなぁ、なんてことを思ったり。関係ないけど、古館伊知郎がプロレスアナとしては素晴らしく、それ以外のスポーツ実況では毀誉褒貶があり、ニュースを語らせたら明らかに全然ダメなのは、プロレスアナをしてる彼はプロレスラーだった一方で、それ以外のスポーツにおいては実体の競技との関係がやや相対化されており、ニュースにおいては明らかに対象と自分を別物として対立させてるから、なんではと(その意味で、古館がプロレスアナだった時代を知る人ほど、現在の古館に失望してると思われ)。
 ただ、絵を描く/作るスキルの無い人がそういう所に気後れせずに上がれるかとか、MAD職人側でもそういう関係を築くには最低限のリテラシーを求める部分はあるのでは、って辺りはちょっと分からず、微妙に思案してしまうところではあるんだけれど……。

◆その他、本日の話題。
 本題とは関係ないですが、プリブラ150万にて、Sランク達成。
「クラーク、スタルヒン……」はちょっと面白かった。祭りとは関係ないが。

Princess Bride 1.5M
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: アイドルマスター

ジャンル: ゲーム

趣味  /  tb: 0  /  cm: 2  /  △top

周回遅れでお届けする、iM@S KAKU-tail Party 2の俺ベスト5。 

 てな訳で、大いに愉しんだ KAKU-tail Party について、標題の通り。順位は基本的に独断です。上位5作くらいをコンセプトに紹介しようかなと思ったのですが、微妙にインフレで7作をば。
-- 続きを読む --
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: アイドルマスター

ジャンル: ゲーム

趣味  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

ボトムアップでの消費、への疑義というか。 

 ぶくまでコメントが入りきらない部分のエントリ移行。

福田政権の無為と女性的資本主義について@内田樹センセイ
累進課税2.0@dankogai氏

 んー、難しいというか悩ましいというか。
 言わんとすることは分かる、というか、消費ってのは結局ある程度進歩した経済圏においてはある種の「ムダ」がベースであり、その消費における「ムダ」の創出者が「一部のノブレス」よりは「万民」である方が社会的により正しいかも知れない、というか少なくとも進歩的であるには違いないだろう。その意味で、格差を均すことやベーシック・インカムを正当化するってのも理屈としては分かる気はしなくもない。ただ、本朝の現状を見るに、今のこの国の娯楽世界においてはかつてないほどにボトムアップベースで「ムダ」が創出されている世の中のように見えてたりもする。俺がネットに浸りすぎてるせいかも知れんが。そして、その消費社会が実際のところどうなってるかというと、結局のところ、ボトムアップであるからこそ、「最低限の出費で最大のムダを創出する」というある種の「ムダの効率化」に突っ走ってるように見えて、それが消費全体の数字を伸び悩みさせてるんではないかなぁ、とも見えるんだよね。チープ化の罠、というか。そうなると、全体として文化的な生活を送ってても、カネが回らないから結局のところ消費社会としてややジリ貧な印象も否めないなぁと。
 で、自分は、結局のところ、ステータスシンボル的というか、金持ちの創出する「ムダ」を中流以下にブレークダウンする古典モデルの方が現状機能するんでは、とも思わなくはない。俺がフサイチ的な大旦那主義をある程度好み、以前dankogai氏に対して「金持ちなら宵越のカネ持たないくらい金使いやがれ」みたいなdisなぶくま※を書いてた背景ってのもその辺にあったりする。要するに、そういう「金持ちによるムダの創出」が、ある種の喜捨というか、それ自体が格差間の等価交換的なメカニズムになる、みたいな形態というか。ただ、ちょっと自分の今の考えが正解なのかも、今ひとつ自分の中でも判然としない部分はある。
 実際のところ、「消費社会」を幸福に回す資本主義のシステム、なかなか簡単そうで難しいよなぁ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 経済

ジャンル: 政治・経済

国内雑感  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

聖徳太子の虚実と、書紀への誤解。 

週のはじめに考える 書き換わる聖徳太子像@東京新聞

 聖徳太子ってのはある程度以上は伝説的なフィギュアではある。少なくとも、近現代においてこの人物の政治家としての評価は、恐らく史実と比べて過剰な方向に振れていたのではないかな、と思わされる部分は存在する。というか、恐らく書紀自体がそこまで聖徳太子を政治家として評価していない、とすら思われる。推古の摂政として推古紀の冒頭に記しているが、そもそも摂政自体がある種この当時は曖昧な役割な部分もあって。
 その上で、書紀を虚心に読んだ上で多くの学者が疑問に思うような「聖徳太子の虚構性」が何らかの形で存在するという認識がある、みたいな意味では「非実在説」は定説化しているとは言えるのだが、聖徳太子と後に呼ばれる皇子がそれほど推古朝の上級社会で無意味な存在だったかというと、多分そうではなさげで、虚構性を強調するのはどうかな、とも。あと、非実在説的な文脈では書紀のほか、法隆寺関連の金石文の史料批判や天皇号の成立の評価などが議論の前提として絡むのだけれど、個人的には新書レベルの歴史本を漁ってるだけのレベルで見てても、この辺りにまつわる諸説についてはまだ決着がついてるとは言い難いと判断していて、その意味でも「定説化」というのは言い切れないなぁとも思われますし、まして蘇我馬子が王位にあったという説なんかは、未検証の仮説に過ぎないでしょう(この時期に推古以外の男王がいた[ないしは太子が天皇に匹敵する権威を持っていた]根拠として、中華側の遣隋使記事の王名タリシヒコ=ヒコ=男という考え方があるが、この思考自体が勘違いで、タリシヒコ=推古でも何ら問題ない、みたいな議論も存在するので)。

 あと、上で「書紀自体がそこまで聖徳太子を政治家として評価していない」と書いたが、要するに「書紀」に対して側面的に付けられた史料によってある程度聖徳太子の虚像は膨張している部分があり、それは恐らく書紀編者の意図とは関係ない。あくまで、虚像を作るエネルギーは巷間の側に存在して、王権の側はそれを適度に利用しつつ、顕彰したまでであろう。少なくとも、聖徳太子の存在によって万世一系の物語を補強しよう、みたいな意図までもが書紀編者のうちにあったかというと、書紀を読む限りは「ねぇよw」と思う。何故にこのような誤解が生じるのかを思うに、恐らくリベラルな史観に立つ人の中では、書紀の編者をもって近代の皇国史観のような考え方の日本教の教祖と信じ込んでる面があるのではないだろうか。恐らくそれは致命的な誤解であり、書紀は確かに現在に連なる天孫の氏族を「勝者」として顕彰するが、別に明治政府で行われたような天皇を中心とする宗教性を明示するものではないだろう、という気もする。要するに、何らかの経典ではなく、あくまで史書に過ぎない、ということ。それは、書紀編纂後の天皇が特に自身の神格化を強化する動きをしていないことからも明白であろう。
#歴史を記述すること自体の政治性は認めるが。
 この時代の政府はあくまで律令政府であるし、既に支配層においては仏教や道教の浸透も進み、王権の支配ロジックとして天皇中心の集権的な神道ヒエラルキーを前面に出す必然性は存在しなかった。地方はある意味原始共同社会的なカミがまだ息づいていたし、それは徴税などの文脈で重要であったが(この時代だと、カミへのお供えとしてしか徴税を理解できない人も多かったであろう)、そこで重要なのはローカルなカミであり、中央集権的な上位神は余り関与しない。
 恐らく、万世一系のような始祖神話ってのはむしろ同様の王権神話を持つ半島諸国との対抗の文脈もしくは(神話学的な)影響下において作り上げられたものであると考える方が自然であり、本朝と半島の濃密な交流史を考えれば、7世紀よりはかなり遡るものであろう。書紀はそれを単純に過去の王権から引き継いだに過ぎない。その意味では「誤解された史書」という印象が強いなぁと。

 では次は、富本銭vs和同開珎、教科書に載るべき最古の貨幣はどっちだ!で一席ぶってもいいのだけれど(笑)、聖徳太子の余談とかをもうちょっと次のエントリ辺りで書こうかなと。

◆ちと追記。
 仁藤敦史氏@歴博による、太子伝説の経緯と研究史の概観についてバランスよくまとめた短評を、参考として貼っておこう。帝国書院のサイトということもありますが、これがほぼTo-Dateな「教科書的解釈」ということで。PDF注意な。
 ・[PDF] 聖徳太子は実在したのか
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 歴史

ジャンル: 学問・文化・芸術

日本史  /  tb: 0  /  cm: 2  /  △top

葛飾地名話@tanabeebanatさまへの返答 

 コメントとしてはちとダラダラと長引いたので。

カオスな境界@tanabeebanatの日記

どのエリアにも言えることだと思いますが、こういうエアポケットみたいな場所ってあります。
葛飾区だと駅名にならなかった白鳥とか新宿とか本田(ほんでん)とか…。本田なんか結局警察署の名前も取られちゃった。
 てな訳で、今のところはまだ本田在住なので反応。
 この辺りの地名としては、結構「本田」って健在というか、小学校や保育園では残ってたり、交差点の名前でも残ってはいるし、それなりに地理的感覚としての「本田」ってのはまだ残ってるとは思われます。ただ、元々本田って南葛飾郡時代は町名そのものだっただけに、全体としてかなり曖昧な地名でもあるのですよね。ここで「駅名にならなかった」という話がありますが、実は京成のお花茶屋はもともと「本田町」という駅名だった、なんて話もあります。それがわざわざ改称されたのは、結局本田のメインな部分からは遠いから、自治体としての本田がなくなったら余り実情にそぐわなくなった、というお話なのかも。結果、本田自体がエアポケット化して存在感を失ったわけですが、お花茶屋がそのまま本田だったら、立石・梅田辺りの本田の人は違和感持ったかもですな。
 新宿(むしろこっちが「にいじゅく」の方が難読かもw)なんかは結構昔はメジャーだったのだけれど、駅を止めなかったことが失敗ってのは昔の街道宿場には結構ありがちな話ではありますね。子供の頃に全然違う所に住んでたときなども、地域史の話で「昔は○○町のほうが栄えていたが、鉄道を引くことに反対したため、結果鉄道が開通した△△町のほうが栄えるようになった」みたいなのは出てきたりで。逆に白鳥は特に古い地名ではないっぽく、当方の持ってる東京の古い地図(23区確立直後くらいの時期)では白鳥の地名は出てこず、青戸の一部に同化してます。因みにこの頃のお花茶屋は下千葉という地名だったらしく、恐らくある程度キャッチーな地名ということで「お花茶屋」という名前を選んだのかと思われますが、多分その時に「白鳥」を選んでた方が現代的には格上の地名になったのではないかと愚考したり(笑)。
 葛飾だとあとはエアポケットっぽいなぁと思うのは、高砂一丁目。一丁目なのに、新中川によって一刀両断されて、高砂の中で孤立している始末。環七とかあるから、現在の地勢的にもよほど青戸の方が相性がいい。あとは上平井かな。これも放水路によって両断されて、本来の平井と泣き別れてしまったサンプル。そして、エアポケット以上の大物としては、小松。本来小松川と同様に小松菜の産地としてその名を残すべき地名が、住民が「下総」で千葉扱いされるのを嫌がったのか(妄想)、下総小松駅を新小岩に改称して、更に新小岩自体が快速停車で本来の小岩よりも格上になってしまったので、遂に町名が消滅してしまったという例。

メジャーではあるけれど金町もかわいそう。亀有、柴又という全国区地名(駅名)に挟まれている。
 ついでに、北の水元も公園の名前としてメジャーになってるだけに、三方を囲われたまさにエアポケット状態ですな。北口とか頑張って再開発して、比較的高層団地としては先駆っぽいんだけれど、微妙に駅前が猥雑な感じが残ってしまってるのが悲しい。南口は商店街だった所におもむろに高層マンションが出来てしまうっぽくて、これも良いのか悪いのか。個人的には図書館があそこに出来るのはちょっと楽しみではあるのですが。あと、金町/新宿だと、三菱製紙のどでかい跡地が再開発されずに放置されているのがちょっと惜しい部分ではありますね。それこそ小菅の拘置所くらいの広大な面積ありそうなんですが、あそこ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 東京23区

ジャンル: 地域情報

よしなしごと  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

倖田発言と、芸能市場の問題。 

防火羊水@小田嶋センセイ

 んー、微妙にツッコミどころもあって。
 本件について何となく思うのは、そもそもこの発言自体はある程度おバカ発言というか、「ババアは早く氏ね」とかに近い程度の発言であり、確かに暴言には違いない(それも誰かTV上の人物に向けたものではなく、視聴者一般に向けられているだけに)のだけれど、個人的に「謝罪されてもな……」的な部分はある。というか、この発言に関して思ったことは「このタレントはアホである」であり、それを謝罪した所で「アホであると認識したこと」を撤回しようがない、みたいな部分があるので。一方で、初めから「アホである」ということに関して「許す/許せない」みたいなレイヤで考えてないので、「どれだけ謝罪しても許せん」的な感情は全くなく、もうちょっと言えばまぁ俺の世代的には怒ってもいい発言だと思うけれど、それだけで「許せない」と思うほど烈火のごとく怒るものでもないかな、とも。
 で、ここで「俺の世代的に」とカイタノだけれど、基本的に「ババアは早く氏ね」レベルの発言ってのは、その逆である「近頃の若い者は」発言と同様、世代によるバイアスによって支持/不支持の分かれるタイプの発言である。その上で、倖田來未にとっての主要な客層ってのは本来、そのバイアスによって不支持が発生しない所の客層なのではないか。要するに、彼女はアイドルでも女優でもなく、アーティストなはずである。「アイドルに興味ありません」by 如月千早の筈である(笑)。いや、モーニング娘。のオーディション受けてたとかそういう黒歴史は置いといて(苦笑)。
「この程度の失言でタレント生命を断たれるようでは、芸能人なんかやってられないぞ」
という話ではなく、
「この類の失言でタレント生命を断たれるべきではない存在」
ではないか、と思う。それが、現実に平謝りせざるを得ない程度に動揺させられたのは、ある意味、この手のアーティストが「非アーティスト的な活動」に依存しないとならない現代の構図である、とも言えるだろう。ここで宮崎あおいが言及されているが、実際小田嶋センセイがハズしているなぁと思うのは、宮崎あおいこそがNANA・純情きらり・篤姫を通じて、「20代後半より上の世代」を主な客層とするタレントである、という点である。因みに蒼井優と宮崎あおいは俗に「Wあおい」と呼ばれてるらしいが、どちらも麻智さん@30台前半の大好物である(笑)。それだけに、宮崎あおいが仮にこの手の失言をした場合、そのインパクトは倖田來未の比ではなかったのではないか、最悪の場合「篤姫」は途中から主人公が和宮に変わって堀北真希大忙しな展開となるやも知れぬとすら思われ。
 と若干話が逸れたが、要するにこの少子化とデフレの現在、パケ代にあかして碌に遊ぶ金もない若い中高生辺りをターゲットにした商売が成立しづらい、という状況の中で、ある程度世代を選ばない方向で売らざるを得ない、みたいな事情はこのアーティストにはあったのではないか、と思う。そして、そういう形で商圏をセットした中において、本来の客層となるべき世代向けの発言が、副次的な客層の世代に敵する格好となっていた、また副次的な客層の側もそれこそ「ジャリガキ世代向けのタレントがこっちの方まで侵入してきてる」的な抵抗感が潜在的にあった、みたいな文脈で炎上した、ってことなのかなぁとも。

◆でも。
 確かに宮崎あおいって良く分からんスキャンダル耐性の強さ、みたいなのはあるかも知れん。まず、結婚したのにあれだけきっちりスルーされるスルーされ力は異常。つか、結婚したら本人の意識面で結構変わる部分で芸風に影響が出る面があると思うんだけれど、あの娘本当に「純情きらり」と全く同じノリで大河やってるもんなぁ。あの辺りのしなやかさを考えると、小田嶋センセイ的見解も有り得なくはないか、とちょっと思ったりはしてしまうのだけれど、その辺りは、まぁ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: ■■倖田來未■■

ジャンル: アイドル・芸能

国内雑感  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

肉体の限界とは、所詮ルールの問題、ではあるが。 

世界記録はもう生まれない?「スポーツ選手は肉体の限界に近づいている」、仏研究報告@AFP

 この問題って、結局元記事でも控えめに指摘されてるけれど、あるところ「ドーピング」に行き着くんだよな。
 「男子の記録」と揶揄されるジョイナーなんかはそれこそ象徴的だけれど、例えば陸上の単純明快系で記録が伸び悩んでいる種目って大概は80年代のいわゆるステロイド・エラ的な時代の記録を抹消するに出来ない結果現存してるものではないかと。その意味では、要するにある程度「ルールの側」というか、ある種の倫理的な規制が記録を抑制する要因になっている、みたいな部分は思ったりする。ただ、別に自分は「ドーピング好き放題で記録じゃんじゃん伸ばしてみればいいじゃん」ということを言うつもりではない。要するに、我々が「スポーツの進化」というのに対して、自ら縛りをかけるというカルチャーが何らかの形で存在しており、それが「選手の肉体の限界」を規定しているにすぎない、ということである。
 例えば、ウマという種について考えると、まさに偏屈爺師が指摘したとおり、ペルシュロンもサラブレッドもミニチュアホースという、外見として全く似ても似つかぬような様々なウマは全て、分類学上、エクウスという同じ種の仲間なのである。人為的な改造によって遺伝的な改造が分類学の文脈を追い越してしまった訳で。となると、例えば、である。人間でも同様なメソッドで「育種」を行った場合、黒人と白人の肌の色くらい異種な人間を作ることはどだい不可能な話ではあるまい。その意味においては、例えば民族間で平均身長が30cmも違わない所の現在の人間には改良の余地がいくらでも残っているし、「肉体の限界」ももっと先にあるのは間違いないように思われる。

つまり我々は、

「アウトブリードの失敗作」の集積

にすぎんのだよ!


 なんて言っても、元の話に戻るが、我々の現在背負っているところの倫理は、そういう形での人類の改良を必ずしも是としてはいないことも明白である。そして、そういう「自らに課した縛り」によって我々はスポーツの限界を規定しているのだけれど、その上でちょっと思うのは、「仮に明らかに化学的ないし優生学的ないしその他の、現在から近未来の倫理において『相応しからざる』方法を排し続けた結果としての進化」によって、単純明快競争の記録を伸ばしたとしても、その結果、現在から近未来の倫理が選手に保証したいところの Well-Being が達成されないとしたら、我々はそのスポーツを継続すべきなのか?みたいな話である。
 要するに、ガチでトレーニング手法その他の「正々堂々たる手段」を用いたアスリートが軒並み50にもなると不治の病に冒される、などいう状況が発生したら、我々はそのスポーツをどう継続すればよいのだろうか、みたいな。或いは、「伝統」という観念から継続すべきみたいな議論も出るかもしれないし、或いはそれならむしろ義体化などをよしとするのか。ちょっとした思考実験みたいな部分はあるかなぁとも。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 陸上競技

ジャンル: スポーツ

スポーツ一般  /  tb: 0  /  cm: 0  /  △top

堀切の地味さは異常 

 また生存証明系。
 とある新築マンションの案内図にて。

千住曙町界隈

 この地図を見て、「何でわざわざ最寄駅をスルーして北千住からの案内になってるんだ?」と疑問に思った人は素人。いや、確かに2路線乗り入れ駅なのにこんな仕打ちにあう関屋・牛田の惨状も結構見るべきものはあるのだが。それよりも、恐らくその関屋とほぼ等距離に近い所にもう一つある駅。お前だ、堀切
 何とマンションの広告でほぼ最寄り駅にもかかわらず、地図の上で現地マークに姿すら消されているという状態。まさに存在自体が黒歴史である。どこの秘境駅だよ(笑)。路面電車・モノレール・新交通システムを除く東京23区の全鉄道駅で最小、1日平均乗降人員 2,719人は伊達じゃない。それにしても、別に各駅停車ですら通過するという往時の菊水山や張碓じゃないんだから、せめて駅がそこにあるなら隠しはしないだろうと思うんだけれど、これはひどい。
 しかし、例えば柴又なんかは寅さんでお馴染みの帝釈天参道とかを結構観光地としてしっかり残してるのだけれど、金八先生の撮影舞台として名高いこの堀切も、もうちょっと観光地っぽく演出できなかったものかなぁってのは不思議だったりする。まぁでも、たかが民放のテレビドラマでそこまで色々仕掛けるにもパワーが足りないか。

◆にしても。
 地図みて思うのは、江南JCT界隈から堀切JCT辺りにかけての荒川放水路と隅田川の間の中洲地帯ってのは足立区よりもむしろ荒川区に編入されているのが妥当なんではないだろうか。そこ切り取っても足立区充分に広いんだし。あと、似たようなので平井から東大島にかけての旧中川と荒川の間の中洲地帯も明らかに江戸川区よりは墨田区のほうが適切に見える。そもそも、荒川放水路を開削した段階で、もうちょっと区画整理とか考えなかったのかなぁ。

◆ついでに。
 東武を通る機会にちょっと携帯で撮った夜の堀切駅。
堀切駅
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 3年B組金八先生

ジャンル: テレビ・ラジオ

よしなしごと  /  tb: 0  /  cm: 3  /  △top

保育園の連絡帳 

生存証明エントリ。

最近、子供にニコ動で色々歌を聞かせたりすることが多いのだが、それに対する反応がそれなりに面白いこともあって、結構連絡帳に書いてしまう訳だ。
「おなかすいたうた」とか「ウッーウッーウマウマ」とか。
しかし、冷静に考えてみたら、保育士の人がこの辺りの曲の名前を聞いて、果たして分かるのだろうかと疑問は尽きない。
因みに、子供に余り動画を見せすぎると絵本とかをしっかり読んでくれなくなったりするので、ある程度自重しながら見せることが大事だったりする。しかし、子供はある状況からほかの状況への切り替えが結構難しいので、やっぱり動画止めると泣いちゃうんだよな。まぁ切り替えが終わったらちゃんとそっちに集中してくれたりもするんだけれど。

で、何となく思い立ってお気に入り曲のマイリツコ……じゃなくてマイリストを作っておくことにした。この辺りのデータがある程度蓄積してきたら公開リストにしてもいいかなとは思う。そういうデータを色んな親が作った上で過日のアイマスよろしくマイリスト公開祭りみたいなことをやれたら、結構子供がどんな映像に興味を示すかの貴重なデータになるのかも知れん。
まぁそもそも、子供にニコ動見せてる親が果たしてどの程度いるのか、だがな(苦笑)。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テーマ: 育児日記

ジャンル: 育児

よしなしごと  /  tb: 0  /  cm: 2  /  △top