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殿下執務室2.0 β1

  : 

有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

トンデモがトンデモを呼びつつ 

 finalventの日記における歴史ネタにちとだけ。

聖徳太子は実在人物であることはかなり疑わしい。このあたりの日本史は根本的に疑わしい。また、白村江戦後は日本は唐のGHQ下にあった可能性もある。
 そもそも倭或いは日本が同エントリで指摘されている通り古代ルートコ(敢えて突厥とは書かん)と大差ない「化外」であるとするならば、そこに対する征伐がもしあったとすれば、それは後漢における班超、明における鄭和のごとく、本国の支援は最低限なものであり、切り取った土地は征伐者が宰領する性質のものであろう。この辺りで、百済や高句麗に対するスタンスと同一のスタンスで唐が倭に臨んだとは若干想像しづらいなと。言うなれば、郭務悰の類のコンキスタドーレスはこの地で自ら王たるべく本朝に対して向かっていた、としなければ話が通じないんでは。その上で、彼らの意図が成功していたならば、それはそれで中華史書において列伝を割いてある程度大書されるべき事跡となっただろうが(少なくとも往時の唐朝は、倭が朝鮮諸国相手に大国ヅラ出来るくらいの国だとは認識してたのだから)、それが失敗したから舊唐書もその辺りはスルーしている訳で。で、有芝の私見としては、唐朝としては劉仁軌伝にて新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會と記録される泰山封禅の儀式をもって白村江の戦後処理は終了とみてたのかなと(余談なれど、もし日本という国号がこの時期以降に成立したものだとすれば、その国号変更は、易姓革命ってよりはこの戦後処理をある程度までご破算にするトリックだった可能性はあるかもとは思う)。そして新羅がこの封禅のあとも独立を保っていたのと同様、本朝も基本的には政権を移譲してはいなかったのだろう。時間軸的にそれ以降で書紀に出てくる郭務悰やら李守真やらの動きはかなり唐からみて勝手にやってたっぽく。
 ついでに言えば、そういうGHQ的な仮説ってのは現代中華の歴史学者からは全然出てこないですよね。半島からはこの手合いがやたら湧いてくるのとは、結構対照的。この辺りは結局、向こうの蓄積した正史読みの教養からすれば、或いは常識レベルで棄却されてる仮説なんではって気も。

4. キリシタンのやっかいな問題がある。
 4の補足。
こういう⇒Kenjya_27
 てーか、逆に言えばそれだけ急速に拡張したのは「戦国の日本人が一神教を受け入れた」からってよりは、「戦国の日本人に多神教的な解釈でキリスト教を受け入れる予知を、サンフランシスコをはじめとする往時の宣教師たちが確立したため」なんでねぇの、ってのが素朴な疑問としてあり。まぁこの辺りの東洋への布教史に関して決して明るい訳ではない……つーか厨房レベルな訳だが、基本的には戦国日本におけるキリスト教って、浄土真宗(或いは一向宗)のヴァリエーションなんではってイメージも結構あって。
#「マリ阿弥陀如来さまがみてる」みたいな感じで。
 その上で、戦国期の本朝をめぐる宗教的な素地ってのは確かに一向宗にしてもやや一神教的な性格も帯びてなくはないとは思うのですが、結局は「極楽浄土」って考え方も日本人の場合には「死んだら神になる」という解釈として受け入れられているとも思われ、その意味ではユダヤ系諸教のような文脈の一神教としては決して受け入れられていなかったと考える方が穏当か。まぁでも、こういう書き方をすると、例えばゲルマン諸族などが古代から中世にかけてキリスト教を受け入れたのもある種多神教的な思考をキリスト教が受け入れた側面があるから、みたいな話にはなって、結局どこも大して変わらん、という話にはなったりする面も出てくるものなれど。
 ところで、戦国~織豊の本朝において、和訳聖書ってのはどの程度普及してたのでしょうかね。印刷されていたって話はぐぐったら出てきたし、現実に上の引用のリンク先などに書かれてる規模で信徒がいたならば普及してても全然おかしくないけど、その辺で経典がらみの訓詁学的な部分が往時の知識人の間でどの程度進んでたかは興味があったりする。ただ、布教のテクニカルな流れとしては、グラスルート的な流れを尊重してたのかもなとは思われるが。
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テーマ: 歴史

ジャンル: 学問・文化・芸術

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