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殿下執務室2.0 β1

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有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

子連れ通勤者がボソッと呟いてみる。 

 まぁ、流石にずっと続けるのは子供がかわいそうなんで、3月までの一時的な措置ではあるんですが、そんな通勤時のひとときより。

日本の少子化対策は無策か?@ちびたとお散歩
ですが、日本に一時帰国したときに
バギーなしで電車に乗ったところ
同じ車両に乗っていた子連れのお母さま方は5組。
全てのお母さんがお子さん一人は抱っこして立って乗っていました。
車内には大学生くらいの若者も、遅い通勤客らしいサラリーマンも
座って携帯メール、寝ている、漫画を読んでいる・・・。
 と、今朝の電車で携帯開けてこのエントリを目にした次の瞬間に、前に座ってた人が赤ちゃんを抱っこしていた人に席を譲ってくれた件。
 つーか、優先席付近で携帯ではてブなんぞ見てる俺が一番ダメな人なのだろう(苦笑)。因みに前に座ってた人の目線からは勿論私の携帯の画面は見えませんので、本当に偶然ってのは面白いもんだなぁとも。という訳で、まぁこんな話も出てくるのだろうけれど、実際のところ子供が生まれてあちこちに出かける機会はあるのですが、傍目から見てるよりも全然周囲は赤ちゃん連れに優しいってのは折に触れて気づかされた面かもしれない。とりあえず目が合ったらにっこりとしてくれるおばちゃんとかは多いし、小学生の女の子が声をかけてくれたり、ベビーカーで階段突っ込むしか選択肢がない時に周りの人に助けてもらったりとか、まぁ色々と助けて貰えるものだなぁと思う自分は、多分人生ナメてる楽天家なのだろうか。麻智さんに言わせれば「この子はお父さんに似て運が良いのだろう」ということであるが、そういう運命的なもの以前に、まぁ結構世の中の人たちは多くの場合潜在的に「子供には優しくしたい」的な善意を持っているのではないかなとも思われます。
 ただ現実には「いや、うちは助けて貰えてない!」みたいなことを言う人も多いのでしょうけれど、何となく思うのは、上述したような「潜在的な善意」をくすぐるにはちょっとしたトリックが必要なのかもって辺り。例えばある種「赤ちゃんらしい符牒」のようなものは眼に見える形で用意した方がいいのかもなとは思う。要するに見た目として「赤ちゃんらしく」するというか、例えばベビーカーでも、マクラーレンとかでありがちな渋い紺色とかよりは(いや、あれはあれでいいと思うんだけど)、安物でも淡いピンクとか水色とかのようなカラーを主体にすると何となーく声とかかけやすくなるのかなとかも考えたり。で、考えるに、基本的に「親子連れが弱者だから」いたわって貰えるというよりは「赤ちゃんだから」いたわって貰える、みたいなイメージがあるので(つーか麻智さんも妊婦のころはあんまり席譲ってもらえんとこぼしてたんで)、その意味では弱者としてのアピールよりも赤ちゃん力の向上の方がこの手の社会的な支援を受ける際には重要なのかなぁとも。何か少子化云々よりも処世術的な話になってしまいますが。
 などと思いつつリンクを辿ると、下のようなエントリが。

[ふと思う]子ども連れは弱者か@深く考えないで捨てるように書く
「子連れの保護者」を弱者とみるかどうかは、かなり微妙な線である。
連れられている子どもは弱者である。保護者はその子どもの存在ゆえに弱者とみなされるが、子どもと保護者を分離したら、そこには弱者である子どもと弱者とはいえない大人が現れる。
 結局、弱者というものはアドホックだから、というお話なのでしょう。
 例えば、満員電車において女性が10kgそこらの斤量を抱えて立ってなければならないならば、まずそれは弱者と見なさなければならないのではないか、とは思う。その一方で、例えば上のエントリで指摘されるとおり、保護者を弱者とはみなすべきではないという見方もあるだろう。或いは同じ電車に乗り合わせた不妊治療中の女性なり不妊以前の喪女から見れば、赤ちゃんを連れて保育園などに出かける行為それ自体が強者の振る舞いと見なされる、なんて可能性まであるかも知れません。その上で、本朝においてとかく「弱者に対して非寛容」みたいな状況が蔓延しているとすれば、「弱者としての立場」がアドホックなものとしてではなく固定的なものとして認知されているからなのかな、とは思われます。その上で、弱者じゃないものや限定的な弱者がその立場を普遍化させようとする動きに対して、警戒心が若干強くなりすぎているのかも。この辺りの話は先日suVene氏のエントリにもあったけれど、まぁ実際世のルールとしてそういうアドホックな弱者性というのを共通認識として、まずはその境界線を切り分けるみたいなことが同意として成立してない辺りは、世の中苦労が多いところか。ただいずれにしても、実際のところ弱者だから云々的な主張を余りやりだすと、結果として弱者同士の不毛な利権争いの中で強者のディヴァイド・アンド・ルールに取り込まれる罠もあるので、まぁ余りガツガツ行き過ぎない方がいいかもとか(話が完全に脱線。
 あと、もいっこ。

[読んで書く]日本の社会だって捨てたもんじゃない@深く考えないで捨てるように書く
 子供が生まれて1年近くが過ぎて思うのは、「子供が出来る」ことによって自分が今まで組み込まれていなかった社会に組み込まれたなぁ、ってこと。DINKSやってた頃はマンションなりアパートなりでも、全然回りの人たちとかは気にかけずに過ごしてたものなのですが、子供が生まれるとある意味そうはいかなくなるというか、結構同じ世代の子供がいるところとの付き合いが出来たり、また外でもママ友だとか保育園だとか病院だとか役所だとか、そういうソーシャルな関係が色々出来てくる。その点では結婚の場合、ある意味子供出来るまでは同棲と同じような部分があって、友達づきあいとかネットづきあいとか独身時代のソーシャルな世界と大差がなかって意味ではインパクト小さかったかも、とも。で、この両方を見ると、子供が出来てからの社会はやはり「助け合い」の要素が結構大きい。この辺りはネットとかでのある種の孤独な殺伐さとは異質な部分ではあると思う(無論子供のいる社会も違う意味で殺伐とした面はあろうが)。ただ、今の世の中は、企業社会とかはまぁまた別として、結局結婚して子供が出来るまではこうした「助け合う社会」みたいな部分から距離を置いて個人主義的に生きられるんだなぁとも痛感したり。その上で、独身者がそういう「子供のいる社会」を想像する視野が足りないケースとか、子供が出来てもそういう「子供が出来る以前の社会」をひきずったりするケースなんてのは結構ネットの書き込みだの世の中の事件だの見てるとあるんだろうなぁ、なんてことを考えますね。
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テーマ: 育児日記

ジャンル: 育児

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