ちょっと競馬方面は微妙にヘコみ気味なので、アクセス稼ぎな天皇ネタ(嘘)を先出ししておこう(挨拶。
「天皇」という称号は、中華においては674年に唐の3代目となる高宗が称していて、その後改めた記録が無いから、恐らくこの皇帝はその後終生それを名乗っている。しかし、高宗の後を継いだ中宗の一度目の即位について、舊唐書は「高宗崩,遺詔皇太子柩前即帝位」ということで、「皇位」ではなく「帝」が使われており、同じ在位について同時期、というか高宗時代の半ばから実権を握っていた則天の本紀では、その翌年の廃位について
と記述しており、要するに高宗に加えられた「天皇」は一代限りの呼称であった。では、何故これが一代限りだったのだろうか、というのが今日のお話。で、実際のところ、これも則天紀の即位前段に答えがあって、つまり、この称号自体が則天の政治的な意図が隠れている、ということ。
要するに、これは完全に当時武后と呼ばれていた後の女帝則天が「天后」という名の下に天子の座に並び立つための方便だった訳ですな。これによって、高宗の晩年において、世は高宗と武后のことを「二聖」と呼んでいたと。これによって「天皇」という名称がその次の代にはなくなる理由も明白であって、要するに高宗の次の代の后には武后が得ていた特権などが与えられるべきでもなかった訳であって、「天后」がいないならば必然的にそのセットであるところの「天皇」もいなくなって、「皇帝」の称号に戻された、と。そして、後に武后自らが帝位を簒奪するにあたっては、彼女は「唯一の天子」として、皇帝を名乗った訳である。
現在の日本史における天皇号論争は、ある程度この唐の「天皇」号が適用されていた時代に本朝が同じ名称を採用したとする説を有力視している部分がありますが、ヒメヒコ制の伝統が根付き、実際前後200年弱にわたる「女帝の時代」の只中にあったわが国が、この「女権を拡大するロジック」の君主号を採用した、というのは確かに物語的には相応の必然性があったかも知れない、なんてことも。まぁ実態としてその前に「大王」号が「何時まであったか」を示す証拠が曖昧な気がするので、なかなかこの辺りが答えになるのかは難しくもあるのだけど。
さて、そんな武后の野心からはじまった唐の「天皇」号であるが、これを採用した際に、自分達の称号を架上するために、同時にワンセットとして先祖の追号を行っていて、これが、後の歴史家にとってやや厄介な結果を招いていたり。つまり、唐の初代と二代の高祖(李淵)と太宗(李世民)について、前者を「武皇帝」から「神堯皇帝」に、後者を「文皇帝」から「文武聖皇帝」に変更している。
ここで、高校世界史の資料集にある系図などを思い出していただくと、中華の皇帝については漢〜隋までが「○帝」であり、唐〜元までが「○宗(祖)」であり、明以降が「○宗(祖)△△帝」である。うち、明代以降の「△△帝」は、元号が一世一元になったので、それを帝号として採用しているのだけれど、隋と唐で「○帝」=諡号と「○宗(祖)」=廟号とで断絶している。そして、高祖と太宗の二代の変更前は、明らかに李淵は「武帝」であり、李世民は「文帝」だったのである。そして、則天皇后こと武照という女性が唐において権力の座に無縁なまま唐が続いてやがて滅亡していれば、間違いなく後の史家は唐の皇帝の年代記を正史に残す際に「(高祖)武帝→文帝→……」というタイトルで本紀を綴ったであろう。ところが、ここで「諡号をリネームする」という大技をこのネーミングオタクとして定評のある女傑が使ってしまったことにより、若干それが混乱を招くことになった。更に悪いことに、もともと「武帝」と「文帝」がいる状況で、そのうちの片方を「文武帝」にしてしまうんだから、結構混乱するところではあるだろう。まぁ李世民はそれくらいの顕彰をされてもいい傑物ですが。
そして、高宗に対して諡号が付けられると、更に混乱が増すことになる。武后が自らの夫に対して送った諡号は、まんま自身の称号であった「天皇」だったのである。こうなると、諡号自体が結構無意味化という状況を免れない。こうしたネーミングの混乱の中、中華の皇帝は、死後は従来のスタイルとしての諡号ではなく、比較的それまでは限定的な文脈でしか使われていなかった廟号で呼ばれるのが一般的になったのである。そして、オフィシャルな文脈から退場した諡号は、顕彰の意味合いを込めて冗長化の様相を呈するようになり、唐の中期以降は「天皇大弘孝皇帝」のように七文字に拡大し、明清期にはもう日本書紀における本朝の和風諡号に近い、非実用的なものと化していくのである。
唐朝は則天の死後、彼女のネーミングオタクとしての産物である則天文字を廃し、四文字元号を廃し、地名を元に戻し、彼女から「皇帝」の称号を廃し、「天皇大帝」と諡号を受けた高宗に劣後する「則天」という諡号を与えた。そうして、漢の呂后に類する「中原の善き悪女」の政事を実現し、盛唐の栄華の礎石となった女性は、歴史において一歩引く存在となった感はある。しかし、我々が歴史の資料集の巻末の系図を見て、「○帝」が唐から「○宗(祖)」に変わることに気がつくとき、その裏には中華史上無二の女傑の大いなる野望があったことは思い出されて然るべきではないかな、なんてことを思ったり。
「天皇」という称号は、中華においては674年に唐の3代目となる高宗が称していて、その後改めた記録が無いから、恐らくこの皇帝はその後終生それを名乗っている。しかし、高宗の後を継いだ中宗の一度目の即位について、舊唐書は「高宗崩,遺詔皇太子柩前即帝位」ということで、「皇位」ではなく「帝」が使われており、同じ在位について同時期、というか高宗時代の半ばから実権を握っていた則天の本紀では、その翌年の廃位について
二月戊午,廢皇帝為廬陵王,幽于別所,仍改賜名哲。己未,立豫王輪為皇帝,令居於別殿。
と記述しており、要するに高宗に加えられた「天皇」は一代限りの呼称であった。では、何故これが一代限りだったのだろうか、というのが今日のお話。で、実際のところ、これも則天紀の即位前段に答えがあって、つまり、この称号自体が則天の政治的な意図が隠れている、ということ。
高宗稱天皇,武后亦稱天后。后素多智計,兼盈文史。帝自顯慶已後,多苦風疾,百司表奏,皆委天后詳決。自此内輔國政數十年,威勢與帝無異,當時稱為「二聖」。
要するに、これは完全に当時武后と呼ばれていた後の女帝則天が「天后」という名の下に天子の座に並び立つための方便だった訳ですな。これによって、高宗の晩年において、世は高宗と武后のことを「二聖」と呼んでいたと。これによって「天皇」という名称がその次の代にはなくなる理由も明白であって、要するに高宗の次の代の后には武后が得ていた特権などが与えられるべきでもなかった訳であって、「天后」がいないならば必然的にそのセットであるところの「天皇」もいなくなって、「皇帝」の称号に戻された、と。そして、後に武后自らが帝位を簒奪するにあたっては、彼女は「唯一の天子」として、皇帝を名乗った訳である。
現在の日本史における天皇号論争は、ある程度この唐の「天皇」号が適用されていた時代に本朝が同じ名称を採用したとする説を有力視している部分がありますが、ヒメヒコ制の伝統が根付き、実際前後200年弱にわたる「女帝の時代」の只中にあったわが国が、この「女権を拡大するロジック」の君主号を採用した、というのは確かに物語的には相応の必然性があったかも知れない、なんてことも。まぁ実態としてその前に「大王」号が「何時まであったか」を示す証拠が曖昧な気がするので、なかなかこの辺りが答えになるのかは難しくもあるのだけど。
さて、そんな武后の野心からはじまった唐の「天皇」号であるが、これを採用した際に、自分達の称号を架上するために、同時にワンセットとして先祖の追号を行っていて、これが、後の歴史家にとってやや厄介な結果を招いていたり。つまり、唐の初代と二代の高祖(李淵)と太宗(李世民)について、前者を「武皇帝」から「神堯皇帝」に、後者を「文皇帝」から「文武聖皇帝」に変更している。
ここで、高校世界史の資料集にある系図などを思い出していただくと、中華の皇帝については漢〜隋までが「○帝」であり、唐〜元までが「○宗(祖)」であり、明以降が「○宗(祖)△△帝」である。うち、明代以降の「△△帝」は、元号が一世一元になったので、それを帝号として採用しているのだけれど、隋と唐で「○帝」=諡号と「○宗(祖)」=廟号とで断絶している。そして、高祖と太宗の二代の変更前は、明らかに李淵は「武帝」であり、李世民は「文帝」だったのである。そして、則天皇后こと武照という女性が唐において権力の座に無縁なまま唐が続いてやがて滅亡していれば、間違いなく後の史家は唐の皇帝の年代記を正史に残す際に「(高祖)武帝→文帝→……」というタイトルで本紀を綴ったであろう。ところが、ここで「諡号をリネームする」という大技をこのネーミングオタクとして定評のある女傑が使ってしまったことにより、若干それが混乱を招くことになった。更に悪いことに、もともと「武帝」と「文帝」がいる状況で、そのうちの片方を「文武帝」にしてしまうんだから、結構混乱するところではあるだろう。まぁ李世民はそれくらいの顕彰をされてもいい傑物ですが。
そして、高宗に対して諡号が付けられると、更に混乱が増すことになる。武后が自らの夫に対して送った諡号は、まんま自身の称号であった「天皇」だったのである。こうなると、諡号自体が結構無意味化という状況を免れない。こうしたネーミングの混乱の中、中華の皇帝は、死後は従来のスタイルとしての諡号ではなく、比較的それまでは限定的な文脈でしか使われていなかった廟号で呼ばれるのが一般的になったのである。そして、オフィシャルな文脈から退場した諡号は、顕彰の意味合いを込めて冗長化の様相を呈するようになり、唐の中期以降は「天皇大弘孝皇帝」のように七文字に拡大し、明清期にはもう日本書紀における本朝の和風諡号に近い、非実用的なものと化していくのである。
唐朝は則天の死後、彼女のネーミングオタクとしての産物である則天文字を廃し、四文字元号を廃し、地名を元に戻し、彼女から「皇帝」の称号を廃し、「天皇大帝」と諡号を受けた高宗に劣後する「則天」という諡号を与えた。そうして、漢の呂后に類する「中原の善き悪女」の政事を実現し、盛唐の栄華の礎石となった女性は、歴史において一歩引く存在となった感はある。しかし、我々が歴史の資料集の巻末の系図を見て、「○帝」が唐から「○宗(祖)」に変わることに気がつくとき、その裏には中華史上無二の女傑の大いなる野望があったことは思い出されて然るべきではないかな、なんてことを思ったり。
5+5!簡単だ!(挨拶)。
結構前にぶくまで上がっていて途中までで読み忘れてたものを拾ってて、何となく。
◆間違った方法で手に入れた結果に、価値は無いと思うから@コードギアスの海外反響
に、出ていたポーランド人の感想などを読んでちと思ったあたりを。
引用長いが、ちょっと切り所がないのでばばっと。
結構前にぶくまで上がっていて途中までで読み忘れてたものを拾ってて、何となく。
◆間違った方法で手に入れた結果に、価値は無いと思うから@コードギアスの海外反響
に、出ていたポーランド人の感想などを読んでちと思ったあたりを。
引用長いが、ちょっと切り所がないのでばばっと。
■ (※20話を観て) スザクは私にとっては単なる売国奴ですね、侵略者に手を貸しているわけですから。たった一人の軍人が全帝国を変えることが可能で、日本の再建に寄与できると思っている。故に彼は非常に無邪気であると言えます。ブリタニア軍の立場に立つことで、多くの日本人が苦しみ、毎日死ぬことを考慮に入れていません。
基本的にスザクには戦う理由がありません。ルルーシュの組織のどのメンバーも、帝国と戦う理由や日本を解放する理由があります。例えば、ルルーシュ ― 母の殺害事件。カレン ― 日本人としての屈辱感。スザクは帝国と戦うことは間違いだと言い続けています。帝国との戦いは無意味であり、時機を待つべきだと考えているからです。しかし、しかるべき時が来るまでどれだけの日本人が死ぬというのでしょう。スザクのは独りよがりな考えですよ。
みんなの大半はアメリカやイギリスに住んでいて、占領に関してはよく分からないと思う。私はポーランドに住んでいるのですが、この国は幾度となくロシアやドイツに占領されました。占領下のポーランドでは、常に二つの党派が存在しました。第一の党派は、ポーランド人の自由をより獲得することを願って侵略者に協力しました。第二の党派は、侵略者と戦い打倒しポーランドの再建を成し遂げたいと思った。常に正しいのは第二の党派でした。侵略者との協力は無意味であり、彼らは平等の権利でポーランド人を扱いませんでした。ポーランド史のこのあたりに関しては多くの書物があり、ポーランドの歴史についてちょっと目を通して下されば幸いです。
このアニメを真面目にとらえ過ぎていると自覚していますが、ポーランド分割時の状況は、このアニメの日本の状況と非常に似ているんです。私にとってスザクの行動は理解し難いものですね。 ―ザーナー (ポーランド 男性) ―
GW中に見てたサイトとかのバックログをば。
プリンと京都の配合評は大雑把に方向性は定まってるけれども、文としてまとまってないので、どっか来週くらいになる、か?
◆「統一新羅」は日本人による創作物?@朝鮮日報
ある意味、統一新羅という言葉によって象徴される「小朝鮮主義」すなわち、朝鮮の本来的な版図は概ね朝鮮半島内に収まる(=すなわち、広開土王以前の満洲中心の高句麗や渤海を余り朝鮮国家として認識しない)というある種の史観・国家観自体はまずは「三国史記」辺りに端を発するものでしょう。それは恐らく、同書の著者が新羅系であり、渤海移民がこの時期多く存在したのにその史料を敢えて渉猟しなかったためでもあるのでしょうが、まぁ概ね「満鮮一体論」的な考えをこの時期に出したところで契丹や金のごとき満洲の強国に自国を併合するロジックを与えるだけだっただろうから致し方なかった部分もあるかも。その上で、統一新羅というターム自体は、そうした高麗以降の史観に近代的な名前を与えただけでないかと思われます。まぁ元記事はこれをもとに「新羅を『統一国家』とみなす小朝鮮主義は日帝による押し付け」としたいのかなと見えまするが。
一方、そこに対応する「大朝鮮主義」は、半島の付け根に聳える霊峰・白頭山を中心に満洲・朝鮮が本来的に一つの国家であるという史観となります。恐らく、広開土王以降の高句麗はこうしたロジックの元に半島に対して南下政策を取っていたと思われますが、まぁ実際朝鮮族は現代も半島を越えて満洲にも点在しており、言わんとすることは分かる的な面もあります。実際ある程度渤海などはそうした大朝鮮的なカルチャーの後継者ではあったように思われますし。で、現在の韓国はある程度この史観を採用しており、高句麗や渤海といった満洲国家を「中華東北」の文脈で扱う中華と対立している訳ですが。檀君伝説などはこの大朝鮮的主義的なベースの神話であり、これが「三国遺事」や現代韓国の教科書に採用されて、「三国史記」に採用されていない辺りは象徴的なところでもあり。
ところで、この大朝鮮主義的なカルチャーですが、ある意味それがまだ高麗時代に残ってたのかなぁと思われるのは、モンゴルが襲来してきたときの高麗における朝鮮北部の対応。この時期、本朝の鎌倉政権よろしく高麗も世襲の武家政権が樹立しており(但し、王都に政庁を置き文官とも妥協的だった点ではむしろ平氏政権に近い)、モンゴルに対して江華島に立て籠もり最悪でも制海権だけ抑えて何とか持ち堪えようとしてたのですが、その際に北部の平安道や咸鏡道の地方勢力は中央を裏切って反乱し、領土をモンゴルに献上してその配下の身分を得てしまいます。その辺りは、日本で中央と地元御家人が比較的一体となって襲撃を抑えた辺りとやや対照的というか。勿論、武家政権のアイデンティティが固まる前にモンゴルに来られてしまった面もありますが、どちらかと言えば遊牧民的なノリで国境に対する意識が低く、国家としての一体感が半島レベルで成熟していなかったという背景も無視できないのではないでしょうか。大朝鮮という場合、どうしても満洲の遊牧地帯を含むゆえに、そのような「領域国家」的な固着は弱くなりがちではあるんでしょう。逆にその後の三別抄の反乱などの場合、南で比較的モンゴル相手に頑張った一方で、首謀者が北の先達同様にモンゴルへの領土献上を試みたことをきっかけに自壊したわけですが、その辺りの南北差というのは詰まるところ、「大朝鮮主義」的な文脈から高麗を捨てることが出来なかった南部の「(小朝鮮的な)国家意識の成熟」かとも思われます。
一方で、高麗に替わって李朝をうちたてた李成桂はというと、北部の咸鏡道出身なのですが、自らの本貫としては全州を自称しました。基本的に数代にわたって北部に拠っていたこの王の氏族が最南部の全州出身である辺りの齟齬について、幾つかの研究はこの王が女真族であることを疑います。とは言え、史実としてこの王が全州の氏族を名乗ったことに意義を認める必要はあるでしょう。すなわち、彼にとって王たる身として「北からの侵略者」であることが不都合であった、ということ。この辺りは、彼が最初から「大朝鮮主義」的な観念を廃棄していることが窺われます。その上で、彼が全州出身であることを自称した背景には、南部がより国家的なアイデンティティを強く持っていた時代的状況があり、言わば「半島国家」として統合するには、国家の軸足をやや南に構えるような国家観が必要だったのかな、とも。
悠久の歴史とある程度近隣国に対峙できる版図を求めて、現代韓国はある程度大朝鮮主義的な史観を求めてる向きがちらほら見えるのですが、彼らが歴史に学ぼうとするならば、小朝鮮主義的な史観が中世の半島国家の成熟を支えていたことにもうちょっと思いを馳せてもいいんではないかなぁとも思った訳でした。
プリンと京都の配合評は大雑把に方向性は定まってるけれども、文としてまとまってないので、どっか来週くらいになる、か?
◆「統一新羅」は日本人による創作物?@朝鮮日報
ある意味、統一新羅という言葉によって象徴される「小朝鮮主義」すなわち、朝鮮の本来的な版図は概ね朝鮮半島内に収まる(=すなわち、広開土王以前の満洲中心の高句麗や渤海を余り朝鮮国家として認識しない)というある種の史観・国家観自体はまずは「三国史記」辺りに端を発するものでしょう。それは恐らく、同書の著者が新羅系であり、渤海移民がこの時期多く存在したのにその史料を敢えて渉猟しなかったためでもあるのでしょうが、まぁ概ね「満鮮一体論」的な考えをこの時期に出したところで契丹や金のごとき満洲の強国に自国を併合するロジックを与えるだけだっただろうから致し方なかった部分もあるかも。その上で、統一新羅というターム自体は、そうした高麗以降の史観に近代的な名前を与えただけでないかと思われます。まぁ元記事はこれをもとに「新羅を『統一国家』とみなす小朝鮮主義は日帝による押し付け」としたいのかなと見えまするが。
一方、そこに対応する「大朝鮮主義」は、半島の付け根に聳える霊峰・白頭山を中心に満洲・朝鮮が本来的に一つの国家であるという史観となります。恐らく、広開土王以降の高句麗はこうしたロジックの元に半島に対して南下政策を取っていたと思われますが、まぁ実際朝鮮族は現代も半島を越えて満洲にも点在しており、言わんとすることは分かる的な面もあります。実際ある程度渤海などはそうした大朝鮮的なカルチャーの後継者ではあったように思われますし。で、現在の韓国はある程度この史観を採用しており、高句麗や渤海といった満洲国家を「中華東北」の文脈で扱う中華と対立している訳ですが。檀君伝説などはこの大朝鮮的主義的なベースの神話であり、これが「三国遺事」や現代韓国の教科書に採用されて、「三国史記」に採用されていない辺りは象徴的なところでもあり。
ところで、この大朝鮮主義的なカルチャーですが、ある意味それがまだ高麗時代に残ってたのかなぁと思われるのは、モンゴルが襲来してきたときの高麗における朝鮮北部の対応。この時期、本朝の鎌倉政権よろしく高麗も世襲の武家政権が樹立しており(但し、王都に政庁を置き文官とも妥協的だった点ではむしろ平氏政権に近い)、モンゴルに対して江華島に立て籠もり最悪でも制海権だけ抑えて何とか持ち堪えようとしてたのですが、その際に北部の平安道や咸鏡道の地方勢力は中央を裏切って反乱し、領土をモンゴルに献上してその配下の身分を得てしまいます。その辺りは、日本で中央と地元御家人が比較的一体となって襲撃を抑えた辺りとやや対照的というか。勿論、武家政権のアイデンティティが固まる前にモンゴルに来られてしまった面もありますが、どちらかと言えば遊牧民的なノリで国境に対する意識が低く、国家としての一体感が半島レベルで成熟していなかったという背景も無視できないのではないでしょうか。大朝鮮という場合、どうしても満洲の遊牧地帯を含むゆえに、そのような「領域国家」的な固着は弱くなりがちではあるんでしょう。逆にその後の三別抄の反乱などの場合、南で比較的モンゴル相手に頑張った一方で、首謀者が北の先達同様にモンゴルへの領土献上を試みたことをきっかけに自壊したわけですが、その辺りの南北差というのは詰まるところ、「大朝鮮主義」的な文脈から高麗を捨てることが出来なかった南部の「(小朝鮮的な)国家意識の成熟」かとも思われます。
一方で、高麗に替わって李朝をうちたてた李成桂はというと、北部の咸鏡道出身なのですが、自らの本貫としては全州を自称しました。基本的に数代にわたって北部に拠っていたこの王の氏族が最南部の全州出身である辺りの齟齬について、幾つかの研究はこの王が女真族であることを疑います。とは言え、史実としてこの王が全州の氏族を名乗ったことに意義を認める必要はあるでしょう。すなわち、彼にとって王たる身として「北からの侵略者」であることが不都合であった、ということ。この辺りは、彼が最初から「大朝鮮主義」的な観念を廃棄していることが窺われます。その上で、彼が全州出身であることを自称した背景には、南部がより国家的なアイデンティティを強く持っていた時代的状況があり、言わば「半島国家」として統合するには、国家の軸足をやや南に構えるような国家観が必要だったのかな、とも。
悠久の歴史とある程度近隣国に対峙できる版図を求めて、現代韓国はある程度大朝鮮主義的な史観を求めてる向きがちらほら見えるのですが、彼らが歴史に学ぼうとするならば、小朝鮮主義的な史観が中世の半島国家の成熟を支えていたことにもうちょっと思いを馳せてもいいんではないかなぁとも思った訳でした。
5世紀の三韓は百済に、久爾辛という王がいる。
書紀の百済記引用の記述が正しければ、この王の父腆支王は414年に死去した。字面の紀年としては294年であるが、この時代のこの史料の常識としては、干支は2回り繰り下げられる。時あたかも高句麗の広開土王の席巻する時代、父王は同盟先の倭で人質として待機しつつ、倭人の警護を受けながら渡海し即位した経緯を持つ。その帰朝にあたっては本国に留まっていた叔父が簒位を狙っており、忠臣に助けられて王座を得るなど、なかなか容易ならざる展開はあったらしい。そして、書紀所伝の百済記が伝えるところによると、久爾辛もまた、長じる前に父に死なれたことで苦しい立場にあったようである。つまり、木満致なる官人が大后と密通しており、政務をほしいままにしていたと伝えられる。木満致は倭人と韓人の間に生まれた混血であり、一部の学者は蘇我氏の祖先と同一視をしている。一方で、大后である久爾辛の母は八須夫人と三国史記に名が伝わるが、こちらもまた、父王が適齢である頃に倭に滞在していた事情もあって、倭人説がある女性である(そうであるならば、この王もまた倭で生を受けたとなるのだろう)。広開土王の仕掛けた三国の戦乱は地理的に海を隔てた倭に利する面はあり、百済にも比較的倭の勢威が強めに浸潤していた時代にこの王は即位したと言えるだろう。倭は、乱れた百済の宮廷に対して干渉し、木満致を更迭して自国に召喚したと記す。
そのような中で即位した久爾辛であったが、そのようにして大后や重臣のくびきが外れるや、416年には東晋に朝貢して、倭に先んじて鎮東将軍の称号を得ると、東晋が宋にかわるや鎮東大将軍に進号される。鎮東大将軍はこの後、百済王に代々伝わる称号として、100年後の武寧王に至るまで墓碑などにも大書されるものとなった。海を隔てた驕慢な隣国に対して、格上となる称号を持つ心地よさはあったかも知れない。一方で妹を倭に嫁がせるなど、先代からの同盟を維持しつつ、南朝との交流を通じて外交で存在感を示すことがこの王のテーマとなっていたようだ。朝鮮半島における仏教伝来の嚆矢となる阿道上人が熊津に甲寺を創建したのもこの王代となる420年とされる。424年には再度遣使を送ると、以後、毎年にわたって朝貢を行う徹底ぶりであった。南朝の史書にはその名を余映と記録される。恐らくは百済の歴史の中でも、このように頻繁な南朝への遣使を行った王はいないように見える。430年に、次代の毘有王が朝貢して爵号を継ぐまで、その関係は継続したようである。その没年は430年、或いは429年の比較的遅い時期に絞られるだろう。父・祖父辺りの事情を考慮すると400年前半から半ばあたりに生まれたと思われる久爾辛は、夭折の君主であった。その死を詳らかに伝える資料は、内外に残ってはいない。
しかし、この王について、半島の正史である三国史記が伝えるものは、余りにも少ない。久爾辛王記の全文を引用しよう。
欠史と言えば本朝の八代の欠史が知られるが、あれは始祖伝説の系譜を指示する意味合いがあったし、后の名前や陵墓の記事、年齢などの僅かな情報はあった。この王は勿論始祖でもなく、既に有史の只中にあって、その事績が悉く消えているという点で、やはり異常であろう。
しかも、その伝えられる即位年・没年も、日本書紀所伝の百済史料や南朝の宋書といった、より信頼できる同時代性の高い史料を考慮した場合に首肯できないものとなっている。それは420年〜427年とされるが、即位前の幾許かを腆支に、没後の幾許かを毘有に吸収されているのだろう。この史書は、その前後の諸王に関しては、比較的近隣国の史料ともよく同期するような紀年を残しているだけに、このズレは書紀における紀年の不自然さ以上に目立つものである。そして、この王の王名もまた謎めいている。久爾辛は「くにしん」と読めるが、それは古代の本朝で三韓の王族を指す「コニキシ」に通じるようにも聞こえるのだ(白村江の後、本朝に亡命した百済王族は「百済王=くだらのこにきし」という氏を与えられている)。要するに、王名が「王」のようにも。そして、南朝が記した余映という中華名について、三国史記は不自然にも腆支に比定してしまった。言わば名前までもが、半島の歴史の中で徹底的に抹消されているようにも見えるのだ。
一体、複雑な国際情勢のもとで生まれ、恐らくどう上に見積もっても30歳にも満たずに世を去ったと思われるこの若き王に、どのような「歴史から消されなければならない」事情があったのであろうか。その上で、わざわざ欠史としてその存在だけが指示されるのは、一体どのような事情なのであろうか。
書紀の百済記引用の記述が正しければ、この王の父腆支王は414年に死去した。字面の紀年としては294年であるが、この時代のこの史料の常識としては、干支は2回り繰り下げられる。時あたかも高句麗の広開土王の席巻する時代、父王は同盟先の倭で人質として待機しつつ、倭人の警護を受けながら渡海し即位した経緯を持つ。その帰朝にあたっては本国に留まっていた叔父が簒位を狙っており、忠臣に助けられて王座を得るなど、なかなか容易ならざる展開はあったらしい。そして、書紀所伝の百済記が伝えるところによると、久爾辛もまた、長じる前に父に死なれたことで苦しい立場にあったようである。つまり、木満致なる官人が大后と密通しており、政務をほしいままにしていたと伝えられる。木満致は倭人と韓人の間に生まれた混血であり、一部の学者は蘇我氏の祖先と同一視をしている。一方で、大后である久爾辛の母は八須夫人と三国史記に名が伝わるが、こちらもまた、父王が適齢である頃に倭に滞在していた事情もあって、倭人説がある女性である(そうであるならば、この王もまた倭で生を受けたとなるのだろう)。広開土王の仕掛けた三国の戦乱は地理的に海を隔てた倭に利する面はあり、百済にも比較的倭の勢威が強めに浸潤していた時代にこの王は即位したと言えるだろう。倭は、乱れた百済の宮廷に対して干渉し、木満致を更迭して自国に召喚したと記す。
そのような中で即位した久爾辛であったが、そのようにして大后や重臣のくびきが外れるや、416年には東晋に朝貢して、倭に先んじて鎮東将軍の称号を得ると、東晋が宋にかわるや鎮東大将軍に進号される。鎮東大将軍はこの後、百済王に代々伝わる称号として、100年後の武寧王に至るまで墓碑などにも大書されるものとなった。海を隔てた驕慢な隣国に対して、格上となる称号を持つ心地よさはあったかも知れない。一方で妹を倭に嫁がせるなど、先代からの同盟を維持しつつ、南朝との交流を通じて外交で存在感を示すことがこの王のテーマとなっていたようだ。朝鮮半島における仏教伝来の嚆矢となる阿道上人が熊津に甲寺を創建したのもこの王代となる420年とされる。424年には再度遣使を送ると、以後、毎年にわたって朝貢を行う徹底ぶりであった。南朝の史書にはその名を余映と記録される。恐らくは百済の歴史の中でも、このように頻繁な南朝への遣使を行った王はいないように見える。430年に、次代の毘有王が朝貢して爵号を継ぐまで、その関係は継続したようである。その没年は430年、或いは429年の比較的遅い時期に絞られるだろう。父・祖父辺りの事情を考慮すると400年前半から半ばあたりに生まれたと思われる久爾辛は、夭折の君主であった。その死を詳らかに伝える資料は、内外に残ってはいない。
しかし、この王について、半島の正史である三国史記が伝えるものは、余りにも少ない。久爾辛王記の全文を引用しよう。
久爾辛王 腆支王長子 腆支王薨 即位僅か、これだけである。欠史と言ってもよい。
八年 冬十二月 王薨
欠史と言えば本朝の八代の欠史が知られるが、あれは始祖伝説の系譜を指示する意味合いがあったし、后の名前や陵墓の記事、年齢などの僅かな情報はあった。この王は勿論始祖でもなく、既に有史の只中にあって、その事績が悉く消えているという点で、やはり異常であろう。
しかも、その伝えられる即位年・没年も、日本書紀所伝の百済史料や南朝の宋書といった、より信頼できる同時代性の高い史料を考慮した場合に首肯できないものとなっている。それは420年〜427年とされるが、即位前の幾許かを腆支に、没後の幾許かを毘有に吸収されているのだろう。この史書は、その前後の諸王に関しては、比較的近隣国の史料ともよく同期するような紀年を残しているだけに、このズレは書紀における紀年の不自然さ以上に目立つものである。そして、この王の王名もまた謎めいている。久爾辛は「くにしん」と読めるが、それは古代の本朝で三韓の王族を指す「コニキシ」に通じるようにも聞こえるのだ(白村江の後、本朝に亡命した百済王族は「百済王=くだらのこにきし」という氏を与えられている)。要するに、王名が「王」のようにも。そして、南朝が記した余映という中華名について、三国史記は不自然にも腆支に比定してしまった。言わば名前までもが、半島の歴史の中で徹底的に抹消されているようにも見えるのだ。
一体、複雑な国際情勢のもとで生まれ、恐らくどう上に見積もっても30歳にも満たずに世を去ったと思われるこの若き王に、どのような「歴史から消されなければならない」事情があったのであろうか。その上で、わざわざ欠史としてその存在だけが指示されるのは、一体どのような事情なのであろうか。
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