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殿下執務室2.0 β1

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有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

人類史において最重要な『5つの出来事』は? 

日本庭園の写真に、何故か世界史ネタ(挨拶)


Spring Green
Spring Green; D700 Sigma 35mm 1:1.4 DG F8 1/90s ISO-400

人類史において最重要な『5つの出来事』は?@nix in desertis

 てなわけで、どっかでタラタラ書こうと思ったら、DG-Lawさんに先を越された件(笑)。
 基本的にはまぁ自分も近い線で考えてるというか、例えば確かにそりゃ「火の発明」や「言葉の発明」は人類史的にというか人類が人類であることを定義はしているんだけれど、それ「進化」じゃね?みたいに思う所もある。そして、人類史全体に対してに大きな意義を持つ発明、みたいなのも幾つか思い付くんだけれど(金属器とか火薬とか化学農法とか)、ただそれも無難に過ぎるなぁ、とは思う。
 もちろん、「人類史」ってのを現生人類20000年の歴史と考えると、ある程度以上それの基盤になるものってのは5000年くらいまでであらかたカタが付いててもそれはそれでいい、という意味で言語や火とかでもいいのかも、と思いつつ、そういう部分よりはもうちょっと「有史寄り」で考えるのはありかも、というとこも含めて。

 その上で、個人的には敢えてDG-Lawさんが除外してる所の「地域ごとの特殊性を生じさせたもの」にある程度の重みを置きたいかな、というところはある。というか、それこそ金属器とか火薬とかそういう基盤的なものを除外すると、ある意味世界がこれだけグローバル化したのが近代以降であることを考えると、ある程度ローカリズム的な文脈の集積こそが人類史において大きいのかな、という辺り。
 で、その中でも、ある程度「地域圏」的なもののフレームワークを成立させ、かつその影響力が500年を超える程度のスパンで持続したなにか、みたいな辺りを結構重く見ておきたいかな、と。詰まる所、細分化を避けつつ、一方で地域に根差した価値観をある程度まとめあげる、みたいな出来事というか。
 そして、出来ればその中で偶発性を持つような「事件」的なものをピックアップしたい、という点ではDG-Lawさんと同意。恐らく、違いとしては「面」を作った事件を拾うか、「線」を作った事件を拾うか、ってことなのかなと。

 そんな発想で、即興的にぶこめにまとめた5件を、もうちょい解説ってことで。

1)商鞅変法
 商鞅について、「綱渡りで危険を冒すスリルに取りつかれた」と喝破したのは陳舜臣であったか、うろ覚え。
 ただ、恐らく「国家千年の計」的な意図ではない、戦国におけるある種の処世として、彼は「法治」を前面に秦の強国化を推し進めた。まぁ呉起の方が先行してはいるが、恐らくは商鞅の方がそれを徹底する場に恵まれ、結果として天下統一という本人も思いがけない成果として長期的に影響を与えた。戦国七雄が統一されていない中世ヨーロッパのような国家像を中華世界から排した、ある種の背景的な存在として。
 いや、始皇の統一自体をおいてもいいかも知れないが、ほぼ政が即位した段階で統一自体は確定路線化されていたようにも思われる、ってのがあって。

2)ニカイア公会議
 いわゆる全地公会。アタナシウス対アリウスという文脈での対決というよりは、それを含め皇帝の指導下にキリスト教の教義が定義される政治的プロセスとしての重要性を帯びた会合であった、とは思われる。この宗教が欧州の政治に深く絡みつく古代から中世にかけての一連の画期として。
 そして、ここで結果として三位一体論が優位性を得たこと、それがまた難解であったことが、逆説的にではあるがキリスト教の「普遍宗教化」を促進したようにも思われる。つまり、イエスのようなキャラクターが抽象化され、結果としてそれはキリスト教が各地の土着宗教と符合する時にある種の形而上的な存在としてヒエラルキーを築くのに役だったのでは、と。そうした偶然性も含め、「欧州圏」を形成し、広域化する際にひそかに役割を持った一件ではなかったか。

3)カルバラの悲劇
 地域圏として有史において最大の単位として挙げられるのは、中華・欧州についで、イスラーム圏であろう。その征服事業自体がアレクサンドロス3世やモンゴルと並び立つが、ある種の「帝国のフレームワーク」を確立させたのはウマイヤ朝であろう。そのウマイヤ朝が「ムハンマドの嫡系」というべきアリー統を排除し、かつスンニ派とシーア派の現代にいたる構図を規定した事件として。
 ある意味、イスラームという元来の設計からして非常に普遍宗教的な枠組みを盛り込んだ宗教に対して、「血統的な権威」を除いた枠組みを与え、ある種の現実主義的な帝国モデルを確立させた一方で、現代に至るこの宗教圏の「まとまらなさ」を規定したとは言えるか。

4)アルマダ海戦
 大航海時代のイベントの中で、個人的にはコロンボの米州到達は「数撃たれたタマのうちの一発」的なものであるようにも認識している。無論、人類史的に馬と疫病が米州にもたらされた意義は果てしなくデカいが。
 ただ、この一連のエクスペディションが齎した成果は、宗教改革という文脈でカトリック側に「巻き返し」の機会を与えるに充分であったとは思う。そして、その巻き返しが潰えたのは、アルマダの敗戦が大きな転回点ではあっただろう。レパントとアルマダが近代欧州を作り、それが世界に「グローバリゼーション」を波及した、とも。うち、後者の方に、前述した宗教戦争の帰趨的意義と、更にこれで欧州大陸の外界に「網を張る」格好となったイギリスの19世紀に至るまでのヘゲモニーの嚆矢として、言わば「三十年戦争とナポレオニックを規定した」大きさを思う。

5)米国独立宣言
 日本という中緯度の大列島国の存在は、世界地理における奇跡である。その奇跡に並ぶ初期条件チート国家が、アメリカ13植民地連合である。中緯度において、海とスカスカの平原により敵国から守られ、かつ地震が少ない恐るべき強力立地。この最強クラスのニューゲームに、あまつさえ13植民地は「共和制」という形態を持ちこんだ。ジェファーソンが勢い余って「人間は平等に創られ」とか書いちゃって、王の入る余地をなくしてしまったのである。
 結果として、それが近代国民国家以前においては当たり前に存在していた王侯を「なくしてもいいもの」としてしまい、そのチートな初期条件とあいまって事後に至るまである種のロールモデル化してしまった。政治史における近代最大の事件として、また現代の最強国の揺籃として、二重の決定的な規模という意味で、フランス革命を凌駕するであろう。


…以下、次点としてはアレクサンドロスのヘレニズム的な交流の意義はあるが(チンギスらのある程度線的要素の強めな発展を上回るとは思う)、その世界自体の強度が一枚落ちるのとそれこそ交流自体はペルシャ戦争以降伏線が豊富であったこと、偶発事件として蒔いた種から出て来たもののデカさという点では世界史上でも最大級のサラエボ事件は、逆に直近過ぎてその意義を総括しかねる部分でやや譲り、清の山海関通過は確かに近代の中華世界においての画期だがモンゴル・中原一体モデル自体は新しくない、みたいな感じでやや譲りつつ、と。
 あとは、地域圏という意味でインド辺りはひとつ大枠として見るべきかもしれないが、これはこれで現代に至るまで統一性が無い辺りを思うと、やはり上述した地域圏での事件に匹敵するものを挙げるのが難しいかな、という辺り。
 ともあれ、結構個人個人で基準を作って回答を作ると面白いものが出来ると思うので、いろんな人が考えてネタを提供してくれると面白いなぁとは思う。
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任那と倭人と、倭を名乗った列島の国家と。 

 春眠もそろそろおしまいとして(挨拶。
#競馬クラスタ的にはクラシック有力馬配合でもやるべきかもだが、先にドバイか。

春色を背に
春色を背に posted by (C)有芝まはる殿下。
DMC-G1 CANON NewFD 135mm/f2.0 F5.6 1/200s ISO-400

日韓歴史共同研究委員会 第2期報告書 第1分科会篇(古代史)

 てな訳で、ネットでも微妙に話題になってた件、まぁ古代だけさらっと読みつつ。
 この辺りの話を読みつつ昨日色々ついってたのだけれど、まぁそれを踏まえた上で何となくこの時代の日韓史学において紛糾する材料であるところの「任那」について、ざくっと思うところをさらしておこう的な何か。

 「任那日本府」の件に関しては、なんとなく読んだ結果として、これ「向こうの誤解を解いた」的な部分はあるかな、と思う。
 そもそも、「日本府」という表現は日本書紀において欽明期辺りに集中して現れる表現であり、本朝の半島交渉における6世紀的な表現であり、それをあたかも「神功以来の日本による半島支配」の術語として誤解していたフシが半島史学界にあったような感があり、その辺りは「誤解を解けばよい」的な立ち位置ではあろう。また根本的な部分として、考古学的に例えば倭国と半島国家が大きな戦争を行ったような形跡とかは余り存在せず、また半島国家における文化破壊の形跡とかも余り見られない以上、少なくとも日本列島からある種の勢力が攻勢を行って一定の領地を切り取ったような現代的な意味での「支配」は存在しないというのは、彼我ともに同意する部分ではあったと思われ。

 そうした上で、「では任那とは『純然たる朝鮮民族による地域政体』である」かというと、もにょる部分も。

 というか、この時代のこの地域の政権、この地域というと語弊があるが対馬海峡両岸の政権のアイデンティティにおいて、「半島」と「列島」がどこまで意味があったか、的な疑義がある。自分は、この地域の住民は、前にも言及したかもだが「倭人」だと思う。そして、誤解されてはならないが、「倭人」はイコール「日本列島人」ではない。この時代の本朝は対外的には「倭」を名乗るが、この時期の本朝の王権、すなわち邪馬台国以降大和王権にいたる対中外交においてハブとなった政権は、ある種の通りがよい地域的な名跡として「倭」を名乗ったに過ぎない、と考えている。
 一方で、「漢書」において楽浪海中にあるとされた「原」倭人は、「海中」が示すとおり、もうちょっと海人的な要素が強かったのではないか。海人にとっては水域がドメインであり、そうすると彼らにとってのドメインは、対馬海峡の両岸だったと思う。半島から列島、またはその逆での人的な移住はあれど、この海人たる倭人自身はさほど移住はせず、むしろこうした渡来(そして勿論、近辺の特産物たる鉄の流通)をサポートすることで生計を得ていたようにも見える。

 その中で、半島側を根拠地とする伽耶諸政権が「任那」だったのかな、と。
 民族的に言えば、半島の三韓・扶余人と、本州の倭国諸族は定住殖民として「山の民」となる一方で、一貫してそうはならなかった勢力、と言えようか。倭人伝における「鯨面文身」なども、これらの勢力が史料に記録されたものと思われ。ただ、その勢力は決して小さくはなく、大和の政権もこの海人勢力を少なからず重用したフシはあり実際に半島に対する制海権を維持することによって政治に干渉していたし、また新羅三王家の始祖伝承のうちふたつに深く倭人が関わる辺りに、その影響を見ることもできよう。
 ただ、大和もダテに「倭」を名乗っていたわけではなく、元来この勢力はより倭に親近するアイデンティティを持っていたと思われる。それは、広開土王碑で任那と倭が対新羅戦で協調していたことからも明らかであろう。

 その上で、高句麗の南下策が結果として大和政権の半島利権の伸長に寄与した4世紀末から5世紀前半に、ある種のターニングポイントが出てくるのかも知れない。ここで、全羅道の前方後円墳に象徴されるように、「倭人ならざるヤマト族」ないしは「ヤマト文化を奉じる勢力」がある程度半島により足を伸ばすような状況が現れる。恐らくは百済と倭国両方の官位を得て相互の交渉に従事しつつ、最終的に百済任那両方の支配力が低かったこの地域に「居座った」と見られる勢力である。
 これが任那本体にまで浸潤することはなかったが、言わば「半島浪人」的に半島の領土を切り取って支配することを目論む豪族勢力が現れたのでは、と思う。例としては書紀で「三韓の神聖」を名乗ろうとした紀生磐辺りを挙げられよう。王権が発展するなかで、内部の勢力争いで不遇をかこったり、或いは集権化する支配に不満を感じる勢力の反発は、こと列島のような多様性の高いドメインにおいて深刻化した感がある。
 こうした勢力が在地勢力との軋轢を起こす中で、半島側の海人勢力は徐々に列島側王権への親和を失い始めたのではなかろうか。紀生磐の乱とは前後するが、既に雄略崩御直後には、任那の主要勢力である加羅が中華南朝にたいする独自の朝貢などを開始した辺りは、そうしたある種の危機感のあらわれを見ることが出来る。こうした状況で、倭は全羅道地域の「四県」を百済に委託することでこの地域から引き上げることを最終的に選ぶのだが、それは任那の海人勢力への求心力を更に動揺させる結果となったと見える。

 一方、対馬海峡を挟んだ逆側では、こうした半島の動きとは似て非なる形で、言わば海人勢力を糾合するように、北部九州を「切り取って」勢威を振るう傑物が現れた。筑紫君磐井である。
 この反乱者は、一見インディジェナスな勢力の代表者のように見えるが、そうではなく紀生磐同様なヤマト豪族の係累であろう。それは、王権の派遣した将に対し「昔は、共器にして同食ひき」的な発言をしている辺りからも窺える。岩戸山古墳という、この時期としては大王に準じるクラスのかなり巨大な部類に入る前方後円墳を築く勢威を持った磐井は、新羅との内通を史書に記されるが、恐らくは土着な海人勢力との連携に成功したことで、半島との流通などの権益を増大させて力を得たのであろう。
 そして、この反乱を鎮圧したあと、少なからず王権の手に海人を再編するのは手間だったのではないか、とも推測され。6世紀半ばの欽明の治世においては、書紀のかなりの部分は百済史料ベースでの任那復興工作の記述に紙幅を割いているが、或いはそうした施策の裏では、九州から対馬にかけての「倭人」までもが新羅の手に落ちることを防ぐ意図もあったのではなかろうか(で、それがあったとしても、ソースである百済史料では関心領域外なので余り言及されない)。ただ、最終的には半島側海人たる任那の独立については、武力でも古代半島において屈指であった新羅真興王の前に保持することはかなわず、大和としては新羅と百済をバランスさせるような外交にシフトしながら、かろうじて交易の経路を確保するにとどまった、と。

 そのような経緯で任那史を辿ると、これは「陸の王権」たる半島と列島の政治的な成熟により、「海」を舞台に独自のアイデンティティを持ったマージナルな「倭人」という民族が、「国家」という地理的な区分に従って分断される形で吸収された歴史であった、と言えるのかな。
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フランスの両次大戦と、「蹂躙される痛み」。 

 夜道でストロボ焚いたら、何か怖い色の目になった(挨拶。

夜の使者
夜の使者 posted by (C)有芝まはる殿下。

フランスから見た第二次世界大戦を、三十年戦争までさかのぼってみる@Drupal.cre.jp

 を、興味深く呼んだという備忘程度に、雑駁なエントリをば。

 で、個人的にここで指摘されてない辺りで考えるのは、そもそも近代以降でフランスの国土がある程度以上激戦の場となったのはWW1まで意外と存在しないというか、百年戦争終結以降、結構フランスって革命とか色々激動があった割には、ドイツほどしょっちゅう戦争で蹂み躙られてるイメージはない、ということ。そもそも、太陽王ルイ14世から両ナポレオンに至るまで、基本的にフランスの戦争は外征軍であった、と思う。革命戦争でもそこまでガチな戦闘はフランス領内で多かったように思われないし、ナポレオンは最後の敗北をライプツィヒ・ワーテルローと、二度とも国外で喫している。その上で、ナポレオンもそうであるが、普仏戦争なんかもスダンの決戦で敗れるとそこから一気に瓦解したように、結構決戦一発でフランスは敗れ去る、というイメージは強い。

 個人的には、確かにシュリーフェン・プランはアホな作戦だったとは思うのだけれど、一方で、フランスのこの「打たれ弱さ」を思うと、ドイツ参謀が「取り敢えず決戦で勝てばサクっと終わる」と考えたくなる気持ちは分かるというか、そもそもドイツという散々大陸に一朝あるとグチャグチャに掻き回された歴史のある国家から見て、フランスのような国内で激戦を経験してない国が今更そんな粘るとは思われない、的な視点はあったのかなぁ、なんてことは思う。
 詰まるところ、それがWW1で成り立たなかったのは、鉄道というそれまでの時代に存在しなかったインフラが存在する一方で、内燃動車というその後の時代に当然のごとく勘定に入るインフラが存在しなかったという非常に偶発的な時期にこの戦争が起こったから、ではあるのだけれど。

 で、話は逸れるけど、WW1がそういう「フランスが散々蹂躙され、ドイツが対して国土的に大怪我しなかった」という、欧州の戦史的には非常に希有な戦争だったことを思うと、これによって受けたフランス人の衝撃ってのも、大革命に匹敵したんではないかな、なんてことを思う。そして、その結果として、「外征の軍」であったフランス軍が、「外征すらも恐れる」ようになってしまった、みたいな面はあったのかな、とは思う。実際、マジノ線なんて引き籠もり戦術に汲々とする大戦間のフランス軍は、栄光のグランダルメと比してある種憐れみに近いものを憶えなくはない。むしろ、第二次大戦時のレジスタンスなんかは、よく頑張ったの部類に入るだろう。
 しかし、第二次大戦のそうした「頑張り」も所詮、フランスという「外征の栄光」に彩られた歴史にとってみれば、「外征でなかった段階で敗北」だったんだろうな、とは思う。その上で、現在はその外向性を、「統一欧州」というコンセプトに乗っかって果たしてみよう、と冷戦以降動く訳だが、所詮「統一欧州」なんてのは神聖ローマ帝国以降1000年にわたり「神の国」を志向してきたドイツ的な文化であり(敗戦後の基本法に置いてすら、彼らは「世界に平和を供する欧州の対等なる一員」という文言を入れることを忘れなかった)、悪く言えば「巨大な田舎」的なフランスの性質には合わなかったことで、国内でも同意を得られなかったのかな、なんてことも。

 一方で、こういうことを書くと、実際、欧州戦線に比べれば規模的に明らかに小規模な太平洋戦争の敗北でこの世の終わりのようなショックを受けた本朝が、人のこと言えた義理ではないなぁ、とは思う。我々も、大坂の役以降国内においては革命内乱以外に大きな戦争での疲弊を避けつつ400年余りの「平和の時代」を謳歌した後に敗北を経験し、ある意味大戦間のフランス程度かそれ以上には、戦争に倦んだ訳である。その上で、幸いにして我々は戦争を経験せずに60年を過ごした訳だが、一方で、戦争がなかったゆえに、コラボラシオン的な思想が定着しきった活力の低下が無いとも思われない。果たして、我々が「智識を世界に求める」ような外向きな向上心を、いかにして涵養すべきであろうか。
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Denn wir sind Mongolen, A-ha-ha-ha!!! 

 てな訳で、最後にドイツ人が「♪ジン・ジン・ジンギスカーン」と歌いながら参戦したら、いい感じにカオス(挨拶)。

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(2009/03/11)
トニー・レオン金城 武

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「チンギス・ハン」はどこの人?韓中蒙で大論争@ZakZak

 まぁ、本件について朝鮮は論外として(つか靺鞨ってどっちかというと満洲系民族の系統であり、中世以降の蒙古系民族とそれほど係累は存在しなかろう)、実際の所、このぶくまに付くような反応ってのは、微妙に「現在のモンゴル・ウルスの中にモンゴル民族が完結している、または現在のモンゴル・ウルスの国民が『正統な』系統である」的な比較的ナイーブな史観ベースなんかなぁ、みたいな部分も考えたり。
 zakzakの元記事でも指摘があるとおり、モンゴル民族は現在「内外に分裂」している状態にある訳ですが、普通に考えて順当なとおり、どうしても気候的により恵まれる南部に属する内モンゴル自治区の方が人口的には多数だったりする。大体、モンゴル民族という遊牧民がそんな同じ所に固まってる訳でもないので、ロシア方面にもいれば、ウイグル方面にも居る訳で、そもそも内蒙古自治区を含めた現在の国境線的な考えでモンゴルを捉えるのも間違いなのだろう。例えば、大河の時宗でクビライを演じ、三國無……ゲフゲフン、レッド・クリフで關帝を演じたバーサンジャブという蒙族の俳優などは、チンギスの子孫を自称する訳ですが、出身はウイグル方面だったはず。彼を、比較的シンプルに「モンゴル人」と書いているケースは多いのですが、こういうのって果たして何処まで適切なのやら、とか考えると結構この問題色々と厄介。

 一方で、我々は現在の中華を古くは黄河文明を起点とする中緯度国家と考える訳ですが、恐らく元・明・清と続くチンギス以降の歴代中華国家は、根本的には「モンゴル」と「中原」の統一国家であり、その統一性を一貫して主張している、みたいな部分はあるのでしょう。要するに、「中原」というベースで考えるならば、北京なんてある意味塞外の入り口であり(実際北京にツアー行ったら大概万里の長城見に行くでしょ)、あんな所に首都を置く理由などは余り無いはず。北京が首都として相応の必然性を持つのは、南に中原を、北にモンゴルを同時に睥睨する「中央性」にあるのではないかと考えられます。実際に、明の永樂帝が南京を簒奪した後に北京にとどまった後は、モンゴルとの戦いに情熱を燃やしていますし、清の皇帝などは、ある意味「元の後継者」として、大ハーンと中華の皇帝を兼任するような部分はあったり、など。

 そして無論、民國と人民共和国は一貫して清朝の領土の一切の後継者として振る舞っている訳で、そうなると彼らの立ち位置は「モンゴル国家の正統」である以上、彼ら自身が「チンギスの出身国」を名乗る理はある、となる。
 個人的にはこの「元朝以降の中華」ってのは、ある程度それ以前の中華帝国とは文化的に一定の断絶があるのかな、みたいなことも思いつつ、そういう意味では彼らは「チンギスの子孫」ではあるかも知れないけれども、逆に三国志の傑物や李世民・岳飛のような名君・英雄との方にむしろある種の違和感があるようにも当方は思ったりもする。強いて言えば、江南まではそういう「モンゴル化」が進んでいないように思われるので(その意味では明の朱元璋は「南宋」的なものの後継者ではあった)、赤壁とかは結構コンテンツ化としてはありっちゃありだと思われるが、「チンギスの子孫」を自称する方々が例えば文天祥のような人物をどう扱うのか、みたいな部分はやはり苦笑せざるを得ない部分ではあり。
 いずれにせよ、上記のような辺りから思うのは「中華」という現在の国号の誤謬であり、本来はこの国は「中華蒙古連合人民共和国」くらいになるんではないかな、と。ならば、モンゴルの庇護するところのチベット支配とかも応分に正当化されても良い訳だが、果たして華人のうちどの程度が、自らを「半分モンゴルみたいなもの」的な状態を是認できるか、ってのは興味がありますな。まぁ、上にも書いたように、そもそも漢族でもっとも人気のある神様の役を蒙族がやってしまってるような現状はある訳ですが、そーゆーのもどう思ってるのかなぁ、とか。

 因みにちょっと思うのは、孫文が自力で革命を成功し得た場合、というIf。彼は広東の人で、ある意味洪秀全などと同様な「漢族主義」により清朝を倒すスタンスであった訳だが、その過程で、もしかしたら彼の理想とするところの大アジア主義から、ある程度漢族国家を確立する中で周辺支配を保留するような方向に化していったのかも知れないな、なんてことも。実際、ある程度分権主義的な方向性を持っていたようにも思われるし。
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スペインの南北朝、にはならなかったアレ。 

スペイン・ハプスブルク家、断絶の原因は「近親婚」か 研究結果@AFP
ほかも色々あるけど、元のブクマページの関連記事とかから拾っておくれやす。

 てな訳で、エスパーニャ・アプスブルゴの滅亡を招いたカルロス2世の血統。勿論縮小しまくりで読めないので、クリックして拡大方。↓
Carlos II Genealogy

 個人的に結構不思議なのは、最終的にこうして不具の君主が出現して王朝が断絶するんだけれど、結構その過程でも少なからぬ近親婚が発生している状態の中で、意外と子供は出てる気がするってこと。キリスト教国、とりわけカソリックを奉じる場合、重婚・離婚が出来ないし、エスパーニャ的な文化としてある程度母方の血脈の貴種性も重視される中で、それでもハプスブルクの女ってのは結構頑張って子供を産んでるケースが多い。そもそも受胎自体に困難を来すケースってもっとなかったんだろうか、みたいなことも考えたり。実際に、ある程度この家系の遺伝的疾患の一因を担うっぽいファナ1世女王(カール5世、フェルディナンド1世の母)なんかも子供は6人も産んでたり。その意味では、カルロスも繁殖能力が絶えたってよりは虚気により子供をなす行為が出来なかったんだろうなぁとも考えたり。

 この手の状況ってのは本朝とか或いは漢字文化圏の王朝には余り多くはないけれど、単純に重婚が比較的広く認められていたから、というのが理由にはなろう。側室で十分アウトブリードになる、みたいな話で、逆に外戚の摂関家がかなり固定化されていた時代には、本朝でも冷泉院や花山院のような怪しい人や面白い人が出てたりもして。とは言え、摂関家自体の外戚は割と適当っぽいのである程度バランスされるよな、って辺り。まぁ、この辺も細かく見てくと色々大変なのもありそうではあるが。また、古代の新羅や本朝なんかでは、結構姻族のクラスもかなり厳密だっただけに、近親婚を重ねたり、或いは断絶またはそれに近い状況は時折出たりしますわな。
 ハプスブルクも詰まるところ、エスパーニャ貴族自体がかなり貴賤婚に厳しいので、余り半端な相手を連れてこられなかった、ってのは大きかったかも。逆に神聖ローマ帝国の複雑怪奇な諸侯群の中から結構繁殖相手を手を替え品を替え選ぶ余地があったエスターライヒ側はそこまで悲惨なことにならなかった訳で。個人的には、エスパーニャ貴族内にある種ムラ社会的な掟的な意味で、抜け駆けして誰かの所の娘が王妃になるなんてのを許さない空気、みたいなんがあったのかなぁなどとも妄想したりもしますが、果たして。

 ともあれ、結果としてはこの後エスパーニャはボルボン家に移行する訳ですが、ハプスブルクがエスターライヒ側で第一次世界大戦後も宗家は名士としてEUでも厚遇されるなど永らえてるのに対し、フランスのブルボン家はもしエスパーニャに移行しなければフランス革命後のgdgdで大分主流が曖昧になってしまっている感があって、その意味ではこの王家がスペインにあって今なお「フランクの血脈」を維持できた幸運を思うなら、ハプスブルク断絶してて却って良かったんじゃね?とも(笑)。
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「天皇」号と武則天~或いは何故唐から先は「ナントカ帝」と表記しないのか 

 ちょっと競馬方面は微妙にヘコみ気味なので、アクセス稼ぎな天皇ネタ(嘘)を先出ししておこう(挨拶。

 「天皇」という称号は、中華においては674年に唐の3代目となる高宗が称していて、その後改めた記録が無いから、恐らくこの皇帝はその後終生それを名乗っている。しかし、高宗の後を継いだ中宗の一度目の即位について、舊唐書は「高宗崩,遺詔皇太子柩前即帝位」ということで、「皇位」ではなく「帝」が使われており、同じ在位について同時期、というか高宗時代の半ばから実権を握っていた則天の本紀では、その翌年の廃位について
二月戊午,廢皇帝為廬陵王,幽于別所,仍改賜名哲。己未,立豫王輪為皇帝,令居於別殿。

と記述しており、要するに高宗に加えられた「天皇」は一代限りの呼称であった。では、何故これが一代限りだったのだろうか、というのが今日のお話。で、実際のところ、これも則天紀の即位前段に答えがあって、つまり、この称号自体が則天の政治的な意図が隠れている、ということ。
高宗稱天皇,武后亦稱天后。后素多智計,兼盈文史。帝自顯慶已後,多苦風疾,百司表奏,皆委天后詳決。自此内輔國政數十年,威勢與帝無異,當時稱為「二聖」

 要するに、これは完全に当時武后と呼ばれていた後の女帝則天が「天后」という名の下に天子の座に並び立つための方便だった訳ですな。これによって、高宗の晩年において、世は高宗と武后のことを「二聖」と呼んでいたと。これによって「天皇」という名称がその次の代にはなくなる理由も明白であって、要するに高宗の次の代の后には武后が得ていた特権などが与えられるべきでもなかった訳であって、「天后」がいないならば必然的にそのセットであるところの「天皇」もいなくなって、「皇帝」の称号に戻された、と。そして、後に武后自らが帝位を簒奪するにあたっては、彼女は「唯一の天子」として、皇帝を名乗った訳である。
 現在の日本史における天皇号論争は、ある程度この唐の「天皇」号が適用されていた時代に本朝が同じ名称を採用したとする説を有力視している部分がありますが、ヒメヒコ制の伝統が根付き、実際前後200年弱にわたる「女帝の時代」の只中にあったわが国が、この「女権を拡大するロジック」の君主号を採用した、というのは確かに物語的には相応の必然性があったかも知れない、なんてことも。まぁ実態としてその前に「大王」号が「何時まであったか」を示す証拠が曖昧な気がするので、なかなかこの辺りが答えになるのかは難しくもあるのだけど。

 さて、そんな武后の野心からはじまった唐の「天皇」号であるが、これを採用した際に、自分達の称号を架上するために、同時にワンセットとして先祖の追号を行っていて、これが、後の歴史家にとってやや厄介な結果を招いていたり。つまり、唐の初代と二代の高祖(李淵)と太宗(李世民)について、前者を「武皇帝」から「神堯皇帝」に、後者を「文皇帝」から「文武聖皇帝」に変更している。
 ここで、高校世界史の資料集にある系図などを思い出していただくと、中華の皇帝については漢~隋までが「○帝」であり、唐~元までが「○宗(祖)」であり、明以降が「○宗(祖)△△帝」である。うち、明代以降の「△△帝」は、元号が一世一元になったので、それを帝号として採用しているのだけれど、隋と唐で「○帝」=諡号と「○宗(祖)」=廟号とで断絶している。そして、高祖と太宗の二代の変更前は、明らかに李淵は「武帝」であり、李世民は「文帝」だったのである。そして、則天皇后こと武照という女性が唐において権力の座に無縁なまま唐が続いてやがて滅亡していれば、間違いなく後の史家は唐の皇帝の年代記を正史に残す際に「(高祖)武帝→文帝→……」というタイトルで本紀を綴ったであろう。ところが、ここで「諡号をリネームする」という大技をこのネーミングオタクとして定評のある女傑が使ってしまったことにより、若干それが混乱を招くことになった。更に悪いことに、もともと「武帝」と「文帝」がいる状況で、そのうちの片方を「文武帝」にしてしまうんだから、結構混乱するところではあるだろう。まぁ李世民はそれくらいの顕彰をされてもいい傑物ですが。
 そして、高宗に対して諡号が付けられると、更に混乱が増すことになる。武后が自らの夫に対して送った諡号は、まんま自身の称号であった「天皇」だったのである。こうなると、諡号自体が結構無意味化という状況を免れない。こうしたネーミングの混乱の中、中華の皇帝は、死後は従来のスタイルとしての諡号ではなく、比較的それまでは限定的な文脈でしか使われていなかった廟号で呼ばれるのが一般的になったのである。そして、オフィシャルな文脈から退場した諡号は、顕彰の意味合いを込めて冗長化の様相を呈するようになり、唐の中期以降は「天皇大弘孝皇帝」のように七文字に拡大し、明清期にはもう日本書紀における本朝の和風諡号に近い、非実用的なものと化していくのである。

 唐朝は則天の死後、彼女のネーミングオタクとしての産物である則天文字を廃し、四文字元号を廃し、地名を元に戻し、彼女から「皇帝」の称号を廃し、「天皇大帝」と諡号を受けた高宗に劣後する「則天」という諡号を与えた。そうして、漢の呂后に類する「中原の善き悪女」の政事を実現し、盛唐の栄華の礎石となった女性は、歴史において一歩引く存在となった感はある。しかし、我々が歴史の資料集の巻末の系図を見て、「○帝」が唐から「○宗(祖)」に変わることに気がつくとき、その裏には中華史上無二の女傑の大いなる野望があったことは思い出されて然るべきではないかな、なんてことを思ったり。
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ポーランドに関しての何となくな雑感 

 5+5!簡単だ!(挨拶)。
 結構前にぶくまで上がっていて途中までで読み忘れてたものを拾ってて、何となく。

間違った方法で手に入れた結果に、価値は無いと思うから@コードギアスの海外反響

 に、出ていたポーランド人の感想などを読んでちと思ったあたりを。
 引用長いが、ちょっと切り所がないのでばばっと。
■ (※20話を観て) スザクは私にとっては単なる売国奴ですね、侵略者に手を貸しているわけですから。たった一人の軍人が全帝国を変えることが可能で、日本の再建に寄与できると思っている。故に彼は非常に無邪気であると言えます。ブリタニア軍の立場に立つことで、多くの日本人が苦しみ、毎日死ぬことを考慮に入れていません。

 基本的にスザクには戦う理由がありません。ルルーシュの組織のどのメンバーも、帝国と戦う理由や日本を解放する理由があります。例えば、ルルーシュ ― 母の殺害事件。カレン ― 日本人としての屈辱感。スザクは帝国と戦うことは間違いだと言い続けています。帝国との戦いは無意味であり、時機を待つべきだと考えているからです。しかし、しかるべき時が来るまでどれだけの日本人が死ぬというのでしょう。スザクのは独りよがりな考えですよ。

 みんなの大半はアメリカやイギリスに住んでいて、占領に関してはよく分からないと思う。私はポーランドに住んでいるのですが、この国は幾度となくロシアやドイツに占領されました。占領下のポーランドでは、常に二つの党派が存在しました。第一の党派は、ポーランド人の自由をより獲得することを願って侵略者に協力しました。第二の党派は、侵略者と戦い打倒しポーランドの再建を成し遂げたいと思った。常に正しいのは第二の党派でした。侵略者との協力は無意味であり、彼らは平等の権利でポーランド人を扱いませんでした。ポーランド史のこのあたりに関しては多くの書物があり、ポーランドの歴史についてちょっと目を通して下されば幸いです。

 このアニメを真面目にとらえ過ぎていると自覚していますが、ポーランド分割時の状況は、このアニメの日本の状況と非常に似ているんです。私にとってスザクの行動は理解し難いものですね。 ―ザーナー (ポーランド 男性) ―
 
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