有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、或いは反逆のドゥ・ロワイユ=デュプレ。
ベビーシッター文化を輸入する前に、今ある仕組み使う手もあるよ。
 海部氏@Tech Mom from Silicon Valleyのベビーシッター話より。

きわめてミクロな少子化対策
よーし、ベビーシッター普及キャンペーンを張るぞ。

 読んでて思ったのだが、使い勝手とかの問題はさておき「本朝にはファミリーサポートがある」ことをどれくらいの人が知っているのだろうか?たぶん海部氏のように海外生活をされている方にとっては耳慣れない制度ではないかなと思うし、はてブでコメントしてる人でも殆ど気づいてないケースが多いように見受けられたので(元記事ぶくまで言及してたのはid:ochame-cool氏とid:inumash氏くらいか)、軽く書いてみる。

 「ファミリーサポートって何ぞや」というのに関してはまずid:ROYGB氏が貼られたリンクを見ればよいし、ぐぐって頂ければ似たような情報(大概は各役所)が山のように出てくるのでここでは省くが、一言で書けば「登録制のベビーシッターみたいなもの」で、要するに一般の家庭で子ども預かってもいいよ、という人が「提供会員」(ないしは、自分も使う側に回ることもある「両方会員」)としてセンターに登録し、簡単な講習を受けた上で、センターで斡旋を受けて客(こちらも「依頼会員」としてセンターに登録する)を引き受けてバイト代を貰うような仕組み、と考えて頂ければよいかと。基本的には、北米におけるバイトのベビーシッターとやることは大して変わらないが、ベビーシッターが「家に来る」のに対し、こちらがサポートさんの「家に預ける」ってのが最大の違いか。
 ある程度事前に斡旋された提供会員さんと会話して雇い主の心得や細かい実費分担などのアンドを取った上で、どういう範囲で預けるみたいなのを予め明確にする必要があるってのはまぁ同じで、それが制度化されてるってくらいかな。あと、これは北米のベビーシッターなんかもそうだと思うけど、業務でやるってよりは小銭稼ぎ的にやるものなので、サポートさんが別の都合がある日には預けられないってのはある。相場については、これもぐぐれば色々ヒットするけど、時間700円〜1000円が相場で、アメリカの平均6ドルよりは気持ち高めも、まぁ役所仕事なんで上下の振れ幅は少ない。で、預かる側に関しては大体は20歳以上ってことになってて、中高生の学生バイトみたいなのは存在せず、実際うちの依頼先も普通に40代のおばちゃんだし、まぁポスト子育て世代と見て間違いないかと(上述の「両方会員」な人は現役ママさんですが)。

 恐らく、日本のような風土で普通にベビーシッターをやる場合には、なかなか細かい部分のトラブルとか管理責任をきっちり洗い出しておく負担はあるかと思うのだけれど、ある程度公共でオーサライズされた機関を通して行うことで、ある程度の安心感みたいなものはあるかなという辺りがメリットにはなろうかと思う。つか、ベビーシッター的なボランティア仕事は日本ではこういう形でしかやれないんだろうな、って気も。実際預ける側も世代が高い方が信用しやすいだろうし。一方で、事前にある程度預けるケースを明確にしないといけないので、かっちり予定を立てて計画する文脈の中で依頼をしないといけないってのは、まぁ詮無いことではあるけれど、北米のベビーシッターと比較すると敷居は高い。斡旋といっても「その場で空いてる人を手配する」なんて訳ではなくて、あくまで面接の上で決まった担当のサポートさんにお願いする形なので、スペアが利かないんですな。あと、結構サポートの用途が限られるというか、どうしても送迎のタイミングが合わない場合とかに限定されることも多い、みたいなのはあるかも。実際サポートもある程度定期的に使わないと子どもにとっては慣らしが利かないとか出てくることもあるだろうけど、つい遠慮してしまう、みたいなことはあるし。因みにうちだと、まぁ麻智さんが会社の集まりとかで遅くなるときに、自分が都合つけても残業とかで早帰りできないケースが多いので予め頼んでおく(大体18:30から2時間くらいのスパンで)、みたいな使い方がメインで、まぁ保育園のプラスアルファ的な、つー感じですな。

 ただ、実際こういうサービスはあるし、自治体のサイトとかを掘ってみる限りでは、普通に利用数も順調に伸びてるようではある(例:京都府兵庫県)。そして、不便な部分もあるけど、使う側にしてもあれば有り難く使えるものではあり。また、恐らく実際に子どもがいて育児をしてる人には、利用してるかしてないかはともかく、幅広く知られてるようにも見える。ただ、こういうサービスの存在って、どうしても「実際に子どもがいて」というケースで無いと、その存在自体にアンテナが行かないケースは多いんではないか、と思う。要するに「潜在的顧客としての独身者」がこういうサービスに気がつかないケースは多いのかなぁ、って気はした。で、その上で「日本はベビーシッターの文化がなくて不便だ」と勝手に勘違いするケースも多いのかなぁ、なんて思ったり、そういう誤解から子供を生むことについてのリスクを勝手に高く見積もったりしてると、ちょっと勿体無い気はした。
 で、こういう制度がイマイチ知られてないことは、行政の広報の怠慢か?というと、それはちと違う気がする。つか、ファミリーサポートに関する似たかよったかな説明は、Google先生引けば飽きるくらい出てくる訳で、むしろネット上見る限りでは冗長ですらあるようにも思われる。むしろ、ネットみたいな場で育児にしても介護とかにしても、ある種の福祉ハック的なものの大枠を集約的にまとめたサイトがあって、薄く広い知識を多くの人が共有できればいいのかなぁ、なんてことは思ってて、その上で役所のサービス説明なんかはそこからリンクされる形でローカルルールを紹介するような形態のほうがいいとは思うんだけど、とにかく日頃そんな関心持ってない人にまで福祉の全体像を知らせるのは難しいよな、みたいな話ではあり。

◆以下余談。
 この手の話になると、ことさら隣の芝が青く見える話が多いんだけれど、恐らく彼我の育児環境の差において本朝が優れている点ってのもあって、それは
「(近くにいれば)母方の親を頼れる」
という要素。これは実は一昔前の団塊世代とかにおいてよりも現在の方が、既に親が上京済だったりすることが多い分有利ですらあるかも知れない。うちは残念ながらこの恩恵にあずかれない側の環境なのだけれど、周りを見ると結構「たまには実家に預けてラクする」パターンは頻繁に目にする(下町だからか?)。翻ってアメリカとかだと、自分が親になるような年になって親のスネかじるのはカコワルイ的なカルチャーは強いだろうし、少々孫が可愛くともなかなか祖母が面倒なんて見てくれんのでは?とも。日本でベビーシッターが余り流行らないのって、この辺の事情も手伝ってる可能性はあるかなとも思われ。
没落エリート雑感
没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たち@女。京大生の日記

 根本的な部分として、京大だから東大だからSFCだからという問題でなく、少子化の中でそれらの大学の枠が大幅に減った訳でもなく、要するに相対的なエリートの価値が就職市場において下がってるのではないかな、みたいな辺りの問題点はあるかも。実際のところ、エリートなんてある程度「絶対数」の文脈で必要ではあると思うんだけれど、ただ新卒採用という形で世代に縛りを入れて市場に供給された場合、やはりその辺の「ありがたみ」問題は結構採る側からは意識されてしまうんではないかな、なんてことも。
 つか、それ以前にもともと真の「エリート」ってのは、日本の一流大学の定員の総和よりは本来少ないんではないかな、みたいなことも考える。例えば、エリート教育と言えばフランスのグランドゼコールなんかがあるけど、一流グランドゼコールの定員の対人口比と本朝のトップクラスの国立大のそれを比較したら、やっぱり後者の方が全然多いんではないの?と。詰まるところ、東大や京大に入っても「エリート」として遇されるには入学してから相応に選抜された存在にならんといけないかと思われるのだが、余り社会や予備校がその辺りの現実を教えてはくれないことも多くて、大学入ってある程度その「選抜」からドロップアウトした人は本来「非エリート」的な競争にシフトしないといけないんだけれど、そこのシフトが巧く行かないことはあるのかなぁ、なんてことは思う。つか、少なくとも東大の文系においては、公務員(ないしはそれに準ずる公的な職業)にもならず大学院にも行かないってのは、ある種のドロップアウトじゃないかなぁみたいなことは前々から思っていたことで、そのドロップアウトの代償を支払うのはある程度致し方ない部分もあり、逆に言えばアタマのいい子どもが東大に行きたいと言ったときに、親はそういう部分のリスクをちゃんと伝えて、覚悟を決めさせないといけないようには思われ。
 そういう意味では、言及される没落エリートってのは基本的に「エリート内競争を選び(ないしは、選ばされ)、それに敗れた者」の中の部分集合だろうな、という気が。勿論エリートになるために京大入った訳ではないと強弁する人も多いだろうけど、まぁ。で、それなりにそこから「平凡な人生」へシフトチェンジできる人はもはや没落エリートではなく、程度差はあれ「ただの人」として適応するだけなので、本件の考慮からはオミットできよう。一方、ある種エリート内競争に参入できる程度の知的能力を持ちながら、社会的に「平凡な」人生にシフトチェンジするのが難しい人が一定数いて(それが「なくなる」なんてことは、まずないだろうと思われる)、それが没落エリートってことになろうか。
 で、恐らく、こういう人の受け皿みたいなのって、こういう人に無理繰りに「平凡な人生」を送れる環境を作ってあげることでも、無理繰りに社会に適応できるような「適切な教育」を提供することでもないんじゃねぇの?みたいな気はしている。既にある程度以上の知的能力っていう「モノ」が存在してるのだから、それを何がしか弄って出力するような方向で、社会において余人を以って替え難く、かつ非正規な職能に従事させることこそが、真の適材適所である気がしている。恐らく、社会がある程度創造的な感性を維持しているなら、そういう職能を色々思いつくものだとは思うんだけれど、何となく「効率性」みたいな方向ばかりに話が向いてくとなかなか活動の場が無くて、現状は後者に近いのかなぁ、とも。ただ、それを打開するのは社会的なグランドデザインってよりは、ある意味企業人的な創造性なんじゃないかって気がしていて、その意味では「経営者」の立場にあるものこそ、そういう「非正規」な部分から価値を見出すような没落エリート的知性を活用すべきだし、そこから利益までいかなくとも某かのアウトプットを得ることを矜持とすることがある種の社会的合意になればいいのだけれど、というお話ではある。余談なれど、その意味ではdankogai氏とかはある種「小金持ち」的な感性で、自身のプログラマーとしての創造性ほどには企業人としての創造性はないんだろうなぁみたいなことを、今回のエントリでも感じた次第。その辺りが氏の「マッチョ」としての限界なんだとは思った。
 ただ、問題として、没落エリートな人って、企業的な「利益」の文脈に自分が組み込まれること自体をある種の敗北というか拒絶するような面もあったりするんですよねぇ。困ったもんだ、ルサンチマン。
確かに青砥みたいな2層構造の方が美しくはあれど。
 本業の人相手に素人が口を挟むのもナニですが。

設計の「思想」・・・・「御茶ノ水」駅と「小竹向原」駅@下山眞司氏

 本質的には、副都心線の問題は
「運行が複雑すぎる」
に収束するんだと思っている。例えば例に挙げられている御茶ノ水なんかだと、基本的に中央線の線路に総武線の列車は入らず、その逆もない。朝夜には中央線が総武線の線路で各駅停車の運用に入るが、この場合は総武線の黄色い電車は御茶ノ水で折り返すルールになっていて、ラッシュ時に秋葉原から来た列車が特快に化けて高尾まで行ったり、神田から来た列車が水道橋に止まる運用は無いわけで。一方で、副都心線はほぼ全時間帯において、上下両側ともほぼランダムにお互いの路線に乗り入れ、干渉し合うのである。恐らく御茶ノ水で同じような運用をしても、やはり相応の混乱は出るのではないかと。
 その上で、副都心線において痛恨だったのは、池袋の副都心線駅を、有楽町線のそれと遥かに離れたところにしか設置出来なかったことかな、なんてことも思う。そうすれば、京成における青砥〜高砂の間のようにある程度スペースを置いた形で列車の割り振りが出来たのではないかとは思うが、いかんせん合流点の一方である池袋駅においてまともに乗り換えがしづらいような距離があると、この方式はとれなかったのであろう。

 ただ、いずれにせよ、こんなの小竹向原で折角対面乗り換えが出来るように作ってあるんだから、中央線よろしく東武が全て有楽町線に入り、西武が全て副都心線に入ればかなりシンプルにはなるはずであろうし、今回発生してる問題もかなり減免されたであろう。大体からして、有楽町線はホームドア無しの車掌付き運用で、副都心線はホームドアでワンマン運転と、運転形態までかなり異なっていることを思うならば、副都心線と有楽町線はある程度疎結合で運用されるべきである。また、恐らく小竹向原を設計した段階では、ある程度そういう運行の振り分けを想定していたのではないか。
 では何故、このようなことになったかというと、これはほぼ間違いなく「副都心線を作るのが(有楽町線と比較して)遅れすぎた」のが原因なのだろう。要するに、既存の客の流れが完全に有楽町線を通じた状態で出来上がった状態で上記のような運行を実現した場合、それまで有楽町線に通勤していた客にとってインパクトがデカ過ぎたであろうことは容易に想像が付く。それでも、対面乗り換え出来るならいいじゃねぇかと個人的には思うんだけれど、やはり今まで当たり前のように享受してきたものを失うのは、客の側からすれば許せないには違いなかろう。要するに、そうしたデマンドサイドへの配慮が、ある程度大きく積もりすぎた結果が現状の混乱なのでは、とは思う。
 詰まるところ、小竹向原から新桜台を先行開業させず、新線池袋開業と同時に練馬〜新線池袋を西武のみでの運用で開始し、副都心線の開業に合わせて池袋線と連絡するような形態にしておけばよかったのかもな、なんてことも考えたりしつつ、要するに乗り入れにおける各社の思惑や綱引きによるボタンの掛け違いが、最終的にソフト的な部分に対して弊害をもたらしたと見るべきであり、ハードの設計に責任を負わせるのは、折角対面乗り換えに設計した当時の設計者に気の毒かな、という気がした。大体、この手の乗り入れの設計ミスなんて今に始まったことじゃなく、古き良き昭和の時代にも常磐線のような黒歴史があるわけで(ぇ。
問題は、北総経由の一般特急かも。
 成田新高速の運賃設定は、色々面倒くさそうだよね、というお話で。

乗って残そう北総線@一本足の蛸

成田高速鉄道開通後の北総線の運行状況については、京成成田新高速鉄道線 - Wikipediaでは、空港直通運転は全線京成が運行、北総線内のみの運行は従来どおり北総鉄道となっている。裏をとっていないので、この記事が信用できるかどうかはわからないが、仮にそこ書かれているとおりの運行形態になるのなら、北総線内のニュータウンから都内への運賃はそのままで、全線乗り通した時の運賃だけ京成本線経由の運賃に揃えるということも考えられる。

 これそうは言っても、あくまで路線としては北総経由で行くことになるわけで、それで運賃を北総経由で取らないとしたらある程度法的に問題があるような状況にはならないかなぁ、みたいなことは考えたりもします。つか、例えば成田空港から日暮里の定期を北総経由で作っても京成本線と同じ額で、ということになったら、現在の印旛日本医大→日暮里の料金は1070円で空港→日暮里の1000円よりも既に高いわけで、ならば印旛日本医大に在住してる人が京成の空港→日暮里の定期買った方が安い、みたいな話になりかねないかと。或いは、定期は無理としても回数券で京成経由の運賃で北総またげるんだったら、例えば印旛日本医大の住民が無理押しして京成の空港→日暮里の回数券で改札通ろうとして強弁したら果たして北総(や京成)は本当につっぱねられるのかしらん、みたいなのが今ひとつピンと来ないというか。

 一方で、基本的に空港発で本線筋の一般特急を残す、という話ではあるから(まぁ実際なくしたら千葉の京成沿線民にとって不便すぎるし)、恐らく別立て運賃を北総向けに適用するのはちょっと有り得ないかな、みたいなのは思うのですよね。要するに、全く同じ改札から入って全く同じ改札を出る列車に対して、来た電車がたまたま北総経由だったら北総の切符を、たまたま京成経由だったら京成の切符を買えと言われても、少なくとも日本に生まれて初めて降り立ったガイジンとかに説明して分かりようがない(つか、日本人でも分かるまい)、みたいな事情はあるわけで。その意味では、北総経由の一般特急を作る、みたいなのが現状の成田新高速のダイヤにおいては聊か無理筋だなぁと思われる部分はあり。勿論、サービス精神を発揮して、ないしは公的負担を得て北総の運賃を全体的に下げるって言うんであれば別ではあるけれど、確かにこれはそんなに現実的な話でも無い気はするし。

 ただ、恐らく北総経由で時間が一般特急でも短縮されるとなるならば、実際相応のプレミアは支払われてしかるべきだと思うし、例えば京成で空港→日暮里が1000円、AE使ったら1920円とするならば、北総経由で1300円台くらいならば妥当な範囲にはなるであろう。で、実際日医大からプラス2駅で+230円強とかだったら、まぁ現在の北総の運賃ともそう齟齬はなく、一方で速達のプレミアとしては相応かな、って辺り。ただ、上述のような問題から、一般特急で運用するのは混乱の元であるような気がする。
 個人的には、昼間の特急については、現在のAE100形車両を北総特急用に運用すれば良いのではないかな、という気がしている。その上で、先頭2〜3両を空港→高砂以遠の乗客向けの定員制にして、成田ニュータウン北以降の客は残りの車両に運賃のみで着席ないしは立席という形にすれば、と。もとより昼間ならばまずクロスシート5両でも満席になることは考えづらいような閑散路線なので、座席が足りないことはないはず。その上で、定員制の車両は「京成経由の運賃+ライナー券」で、北総経由分の差額運賃を徴収するようにすれば、見た目的にはクリアになるだろう。あとは、ノンストップ160km/hの新AEに関しては現状レベルの指定料金取れば、みたいな感じで。
 ただ問題は、北総経由の一般特急を20分に1本とか言ってるんで、現在昼間40分に1本の現AEだけでは編成的に足りねぇかな、って辺り。個人的には、AEを差し引いても現在の倍の一般列車を北総に通すのは明らかにオーバースペックで、それこそ運賃負担に跳ね返りそうなだけに、そもそも一般特急が40分に1本で十分じゃねぇか、みたいなことは思うんですけれどもね。

◆あと。
 朝夕に関しては、そもそも24時間空港でない成田は朝はそんなに本数は要らないし、実際北総の側も都営直通の優等を増やす方が余程大事なので、そもそも北総経由の空港特急自体が入る余地が少ない気がする。その時間帯はAE100をモーニング・イブニングライナーとして使えば宜し、みたいな感じで。

◆一方で。
 北総中心にAE100を運転するならば、北総色のAE100とか作ってくれると、個人的には少なからず萌える(結局それかい。
経営学では説明しきれないマンション売却の謎
 ごめんなさいごめんなさい、ホッテントリメーカーで標題を作りました。平たく言えば釣りです(挨拶。

 てな訳で、Biz誠でコラムを書かれている保田隆芳……じゃなくて保田隆明氏の不動産売買話(1話2話3話)が完結したが、割とこの手のネットメディア的な記事としては上から目線感がないというか変に飾らない体験談として、そこそこ愉しんで読めた。で、結構恵まれた条件なのに、売却には苦労していた辺り、なかなか大変だったんだなぁという最終話が結構印象に残ったというか。まぁ、「住み替え」でぐぐったら結構この手の苦労話はゴロゴロ出てくるんだけれど、まぁそういうもんなのかなみたいな感じで。因みに、この連載に興味を持ったのは自分も丁度家を買い換えたばかりだったから、ってのがあったのだけれど、比較対象的に有芝家の住み替えの始終をざざっと書いてみると、概ねこんな感じ。
真央ちゃんになって欲しい、ってのとは違うような。
 うちの子は、高橋大輔のことを「かん君」と言います。接点は何処にあるんだと(挨拶。
#まぁ2ちゃんねらーの「デー」って呼び名も大概だとは思うんで、似たかよったかかw
 で、ちょっと前のネタを掘り出し企画中。

石川遼さんと浅田真央さんを「理想の子ども」とし過ぎることへの懸念----文科省が、無神経でなければ良いのだが@汎適所属

 ぶくまに余りにもピュア過ぎるコメントが例によって例のごとくで並んでいたので、思わず茶化すような※を入れてしまったわけだが(でも欲しいぞ、浅田姉みたいな美人の娘w。色んな意味で大変そうだが)、要するに二宮金次郎の銅像を何に置き換えるかって話じゃねぇか、みたいなのはあるんだけれど、まぁちょいつらつらと。

 親なんてのは、まぁケースバイケースかも知れないけれども、案外諦めがいい存在でして、子どもが可愛いってのが先に立つ程度に過保護な場合(そして、基本的に現代にあってはそういう親の方が増えてるかと)、子どもに対してそこまで厳しくは出たりしないってのもありまして。そりゃ子どもがある程度スーパースター的なものに育つならばそれに越したことはないとは思うでしょうけれど、だからっつって真顔で「あぁ、自分も遼クンや真央ちゃんみたいな子どもを育てなければ!」なんて思うかってったら、ねぇ、と。あと、普通はいい大人だったら、石川や浅田みたいなのを育てるのに必要なリソース、勿論それはゼニだけではなく、自分の子どもにかける執念みたいなものも含まれる、が足りてないなんてことはある種の世間知として分かってる訳で、要するに「石川や浅田が理想」というときに、そう言ってる人が求めてるのは、
「世間様に対してあれくらいの外面を見せることができる社交的で天真爛漫な息子や娘が、親の選んだ道を選んでくれる」
くらいのレイヤに過ぎん訳で、別に若くしてプロをやっつけちゃうような天才ゴルフ少年や、現役では世界最強のフィギュアスケート選手にまでなってしまうことを理想だなんて思ってないでしょう、と。つまり、石川や浅田のような少年少女が「メディアで見せている人柄」と「行っているプロセス」が問題であって、彼/彼女のアスリートとしての資質や実績は余り問題にはなっていないし、その意味では「100点取れなきゃスーパースターになれないでしょ!」と、この学習指導要領の意図はリンクしていないんじゃないかと思うんですよねぇ。まぁ実際、それはあくまで多数派における話であって、ある特定のケース、つまり「中途半端に子どもに才能があったり、中途半端に親が裕福だったり情熱的だったりで、ある程度の所までリソースを注ぎ込める」相対的少数において恐らくシロクマ氏が指摘されるような問題は発生するのことはあるのだろう。一方で、例えば役所の指導によって世の親の多くがスーパースターを育てる理想に走る未来があるのか、というと、果たしてどうなんでしょうかね、とも。

 本件についてはむしろ問題とするならば、そういう「理想」の中に、「親の選んだ道を選んでくれる」みたいなのが見える点ではあるのだろう。石川にしても浅田にしても、ある程度あの年齢であの種目において現在のような地位を得るにあたっては、自分に判断能力がつく以前の段階からその種目に少なからず打ち込む必要があったのではと容易に想像されるのですが、そういう状況で彼/彼女がゴルファー/フィギュアスケーターを「選ぶ」ということの中にはある種の「強制性」みたいなのはあった、かも知れない、ということ。要するに、こういうものを「理想」とする裏には、確かに「子は親の所有物」みたいな考え方がチラつく面はあるだろうし、ある意味でそれが「子どもの選択肢を親が狭めている」状態とも見えなくはない。
 ただ、これは結構難しいんだよねぇ。
 逆に若いうちに何かを「提示されなかった」一方で、結果としてそういう一生をかけるものを「選べなかった」ことによる不幸ってのも確実に存在する訳で(例えば、学歴社会の負の側面が見えた時代に養育されてたロスジェネ辺りにおいては、そういう面が強い向きも多いのではないか)、自分は「子どもにどんな道を選ぶか強制させるな、自分で一切選ばせろ」みたいなピュアな議論にも必ずしも同意できない。勿論、子どもがそれに親の提示した道に反発する権利は認めないといけない、とは思うんだけれど、親としてそういう道を提示することは悪いことばかりではないんじゃないかなぁって気もしなくはないし、まぁ状況によりけりで何とも言えないよなぁ、とも。
 ただ一方で、世の中自体が構造的に「勝ち負け」みたいなのに拘る世相になっている一方で、親コミュニティの中でもそういう競争社会みたいなのは古今存在する訳で(例えばはてな村界隈の知的な皆様の親御さんなどにおかれては、さぞやそういう所でバリバリと争っておられた方が多いのではと愚考する)、そういうのが先鋭化した中で、余り親の勝負のダシに子どもが使われるようなことについては、親たるものはある程度自分を戒めないといけないんではないかなぁ、とは思うのですが。
「ガチ」によって奪われた「自由」
努力しても決して幸せになれない理由@FIFTH EDITION
何度も繰り返してきたけど、国民の生産性が伸びれば伸びるほど、その国は豊かになれる。つまり、生産性を高めることは、その国、国家、他の人々への最大の貢献なんである。逆に、生産性が低ければ、その国は貧しく、低い生活水準を享受せざるを得ない。(中略)競争による淘汰圧によって、生産性が押し上げられると、結果的にだけど、国が豊かになる。国が豊かになれば、社会的な利益が増大するんである。

現代の新たなる富国強兵について@ロリコンファル
私は、資本主義を礼讃したくない。礼讃するなら私は、愛情と良心の方を礼讃します。どちらも、人間が自分自身としてあることのためにずっと戦い続けてきたものなのです。全てを闘争に還元しようとはしない心、自由を求め、人と人の共感、慈しみを感じる心、こちらの方にも、微力でも力があるのです。その力を、信じたいと思っています。

 生産性の向上(≒豊かさ)が社会を幸福にするという前提に立てば、pal氏の書かれている通り資本主義でいい、ってことになるのだろう。自分も、大筋ではというか理論的には、それで間違ってない気はする。「社会を幸福にするための最適なシステムを選択しないことは、個人の幸福をある程度以上制限する」のは事実かと思われる訳で、既に資本主義が「生まれてしまって」いる世界においては、なかなかこれを否定して個人の幸福を追求するのも厳しいような。因みに、pal氏のエントリには「社会を幸福にするために最適化されたシステムが、個人を幸せにしないシステムを担保している」的な資本主義批判というか資本主義の限界の指摘みたいな側面もある訳で、恐らくこれに対して自己責任マチョズムを批判するのはややハズしているとも。

 その上で、何故にkagami氏が「生産性の向上が社会を幸福にする」という前提に抵抗感があるかというと、まぁ「生産性の向上」による報酬を社会が遍く受けられることを信用してないからなのかな、みたいな話であることは容易に想像され、結局それは、言及されるところの、「生産性の向上」の結果発生したリソースの余剰をどのように使うかという、「再配分」のレイヤに落ちてくる問題となるのかと。で、その「再配分」には、「労働者と経営者の間での配分」と「繰越と再投資の間での配分」の二種類の軸が存在する、と思われる。つまり、剰余が発生してもそれが労働者にいきわたらなければ搾取であって、社会全体の幸福には繋がらないし、剰余が発生してもそれが全て再配分に回されたら、つまり、生産性が上がった分さらに生産活動を行う場合、生産性が向上しても忙しさは変わらない。
 その上で、政治的な再配分の議論においてはどうしても前者の問題がクローズアップされることが多いし、現実に前者の問題も大事ではあるのだけれど、個人的に日本の資本主義社会の問題としては、後者の方が注目されるべき気がする。例えば、欧州人が何故に日本人よりもラクに仕事してるように見えるか、みたいな話が出ているが、それは詰まるところ彼らが「生産性向上による剰余」を、少しずつ「個人をヒマにする」ための原資として積み増しながら、再投資のバランスを抑えることを繰り返してきたことによって、「労働者の余暇」を漸次かつ不断に増やし続けた成果なのかな、みたいなことを考えつつ。
 手っ取り早く労使が協調して、剰余を生産性の向上に再投資すれば、ある程度ドラスティックな成長が見込めるし、所得は向上するだろうし、労働市場における労働者としての個々人の価値も向上するであろう。しかし、そうして再投資に全て注ぎ込み、生産性の達成目標を「可能な範囲でのMAX値」に設定するような行為ってのは、最終的に「物質的な豊かさ」を担保しても、人をして「パンのみにて生きる」存在に帰しめるものかもと思う。そして、恐らく日本は「剰余」が発生しているフェーズ、それは明治の産業革命期であっても昭和の高度成長期であってもそうだろうけれど、そういうフェーズで必ず「繰越」よりは「再投資」を選んでいたのではないか、と見る。そして労働者と経営者は、剰余について「労働者と経営者の間での配分」については都度角逐を繰り返しても、「繰越と再投資の間での配分」についての考え方は一致していたか、もしくはそういう問題そのものに気がつかなかったかのように思われる。或いは、欧米人に勤勉さを驚かれてある種有頂天になることで、更に「再投資」にこそ美徳を感じたことすらあったかも知れない。

 問題は、そういう常識で競走……じゃなくて競争を行う場合、必ず「より強い選択肢が支配する」資本主義の世界においては、「繰越」の選択肢自体が取れなくなることである。これが、日本人が資本主義を適用するにあたって陥った「罠」なのではないか。要するに、「繰越と再投資の間での配分」の間で我々は自由を失い、詰まるところ資本主義社会において労働者(或いは、経営者までも!)が「ヒマになる自由」を失ったのである。これが、kagami氏におけるような「資本主義への不信感」のような形として現れたのかも知れない。
 ただ、個人的には資本主義における「生産性の向上」ってのは、必ずしも本質的に日本におけるような結末を招くものではない、と思っている。単純に、日本を取り巻く時代状況において、我々の近い祖先が取ってきた選択のスペシフィックな結果であり、他の選択がなされていれば違う資本主義の発展(ないしは挫折)があったのだろう、と。恐らく、欧米人は「働かざるもの喰うべからず」という言葉と同時に「人はパンのみにて生くるに非ず」ということも周知していたので、彼らなりの選択で「再投資」を抑制しながら資本主義を実装したように思われる。要するに、「ルール」として「強者であっても『全力を生産性のために注ぎ込まない』」ことになったのだろう。ただ、ある時期の日本人の求道心は、「パン以外に心を奪われる」ことを美徳とはしなかったのかなぁ、なんてことも思う。言わば「ルール」として「ガチで『最高なアウトプットを追求する』」という話になったのかと。これは、一握りの権力者の陰謀によって取られた選択というよりは、日本人全体の気質と空気に基づいた選択っぽくあるかな。
 そして、現代においてもそういう「一意専心」の観念の亡霊は、マチョズム的空気として世に流れてるのかも知れない。それを批判するのは容易いけれど、でもここ日本だからねぇ、などと思うと、なかなか難しくはあり。

◆しかし。
全うな労働問題の専門家が見れば、一瞬で論破されそうなエントリだな、これ。
実際、海外の事情とかは良く分かってないので、このエントリ自体かなり印象論で書いてる始末で……。

◆あと。
どっかの段階で日本人、特にホワイトカラーの生産性は向上施策が破綻してると思うのだけれど、基本的に上記の話は「方向性」がそうなってるという話で、実際日本人が生産性が高いかどうかとはまた別の側面の話のつもりです。

◆以下余談。
再配分の議論において「労働者と経営者の間での配分」による軸の方がクローズアップされがちなのは、それこそ言うところの「相対的な幸福」に囚われた人が多数派である故なんだろうな、などと思うと、微妙にげんなり感が増しますな。
Copyright © 殿下執務室2.0 β1. all rights reserved.
無料ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ 一戸建て