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殿下執務室2.0 β1

  : 

有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

ブコメよりちょっとだけ長いコメント。 

 一日遅れ(挨拶。

L-J Day
L-J Day posted by (C)有芝まはる殿下。
DMC-G1 Lumix G Vario 14-45mm/F3.5-5.6 ASPH.(14mm) F5.6 1/500s ISO-200

◆Togetter - 「アジカンの後藤さんによる「音楽好きってことが反戦行為」発言まとめ」

 何故か真っ先に思い出したのは、「汝、神の戦士たれ」を高らかに歌うフス派ターボル軍の威圧の前に、十字軍が戦わずして敗走する光景だったりする訳ですが、冷静に考えたらそれまで残虐の限りを尽くしてるから、あの歌だけで怖じ気づくんだよな、とか自分にマジレス(ぇ。
 で、多分この遣り取りの中で
知ってるよこのヤロー。留保やら注釈ばっか付けてたらあっという間に言葉は力を失うんだ。 RT @gotch_akg: 僕は極論を言う。でも、思考停止なんてしてないぜ。敢えて言ってんだよ。芸術家だからね。

 って辺りが何となくツボったというか、言わんとすることはよう分かる状態だったんだけれど、一方で、この辺りにこそある種の権力関係が発生するんだよなぁ的なことを思ったり。仮に芸術家の側は「思考停止してない」としても、恐らく聴衆の側は「思考停止してる」と思うし、逆に言えば思考停止してなければ1:nの音楽の力ってあんまり意味ないよね、みたいなことも思う。思考が停止しないならば、サロン的な1:1になるんではないかな、的なことも思うし、それ音楽じゃないよ、とも。
 で、そうした「思考停止」と「思考停止してない」の間のミスマッチの中に権力みたいなのが発生すると思うし、権力の介入の余地が発生すると言えるかも知れない。言わば、音楽の「芸術としての力」が、ある種の権力を誘引するのでは、と。そして、有芝が権力という時、基本的にそれは暴力と軌を一にしてるのだけれど、ある種の暴力となるものだよね、と。
 で、そういう辺りから、音楽というか芸術の持つ力ってのは、思考停止のマスに基盤を置くって意味で「悪い意味で中立」な所があるなぁと思われ、それに対してある種のグッドウィルを仮託しようとするのは、それは既に芸術表現ではなく、政治力的な側面なのかなぁとは思う。まぁ、このツイートも、ある意味政治的なもの以上ではなく、芸術にタッチする場所には無い何かっぽくは見えるというか。個人的には、政治力の振る舞いを活用しながら、表現を純化したって意味ではショスタコとか結構面白い人だと思う、みたいな辺りで、どっとはらい。
 普段、この辺りの考えの断章を100文字でまとめてぶこめに書くことが多いが、最近100文字にまとまらんことが多くて、多分色んな意味で本調子じゃないんだろうなぁ>自分、というお話。
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テーマ: 軍事・平和

ジャンル: 政治・経済

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多分、幕府以外の選択肢は必要だったんだろう。 

 燃えてるんだwww廊下wwwwwwwwww(挨拶。

ゲリラ豪雨
ゲリラ豪雨 posted by (C)有芝まはる殿下。
DMC-G1 Lumix G Vario 45-200mm/F4.0-5.6(200mm) F8.0 4s ISO-100

織田信長は幕府を開こうとする意思を持っていたのか@とある素人の歴史考

 ここに到る以前の問題として、そもそも戦国末期において河内源氏嫡流と足利家が征夷大将軍として幕府を創設してる訳ですが、前者は僅か三代にして断絶され、後者も応仁の乱以降は武家の棟梁としての指導性を喪失していたことを思うに、「征夷大将軍」という職位の担保する権威性ってのは何処まで強かったかというとちょい微妙なのかなぁ、的な思いはあり。
 その上で、織田信長は天下取りの過程で「源氏」ではなく「平氏」を名乗り、言わば河内源氏から前北条氏的な政権交代を指向していたことを考慮するならば、恐らくは紫苑氏が指摘するように、当初のところは足利家による「幕府」の存続を基本的には拒絶せず、それに対する執権的な実質支配を目論んでいたという辺りは想像できるところではあるでしょうか。最終的な判断も含め、恐らく信長は「幕府」という形式には拘っていなかったようには思われます。
 言わば、「征夷大将軍の睥睨する幕府」という「武家政権の必ずしも成功したとは言えない例」よりも優れた形態を、最終的には指向する方向に向かったのではないか、と。余談ですが、逆に「成功したとは言えない」幕府制度をリファインするという発想に至り、それに成功した家康はそういう点では恐ろしい構想力を持ってたんだと、逆に思いますね。

 さて反面、信長は記事で指摘されるような政戦量略の巧みさの反面、聊か政敵を屈服させる際に吝嗇な部分があって、元ブコメの絡みでトロさま辺りの指摘もあったのだけれど、例えば秀吉が行ったように相手の勢力を温存させなかったような嫌いがあったのではと思われ、そういう辺りで、最終的に反発を受けやすく、また統一事業に時間が掛かった部分はあるよなぁ、とも。
 その意味では、結構10年か20年くらい長生きしたとしても、秀吉が達成できたほどに速やかには統一事業をなしきれなかったのではないかなぁ、みたいなことは思われ。また、信長本人がある意味それを理解していて、その文脈において「本当に統一した後のインフラ」に関しての詳細な構想はじっくり詰めつつ後手に回していたのではないかとも推測されます。
 で、それを後手に回して詳らかにしなかったことで、やたらと信長が大それたことを考えてた的に妄想されやすく、「秀吉よりももっと巧く唐入りを果たしていた」だの「天皇に取って代わるつもりだったのでは」だの言われるのだけれど、恐らくそこは本人も一つの腹案としては持っていても、現実性のある案として練るには至ってなかったし、或いはそうしたことを現実には考えてすらいなかったかも知れないな、と。

 ただ、秀吉が「豊臣氏」を創設して、新氏族として武家と公卿の両方を睥睨する形態を取った史実について、そのアイデアが秀吉のオリジナルなのかは、想像の余地はあるのかなぁと。つまり、信長の腹案の一部を実装する形で、そうした「幕府」でも「執権」でもない、新たなインフラを模索してたのかも、など。実際、秀吉が本能寺以前に自らが天下人になることを想定していたか否か、っての自体が杳としているだけに何とも言えない部分ですが……。
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テーマ: 歴史

ジャンル: 学問・文化・芸術

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聖徳太子の「本来の」名前とは 

 富士急ハイランドのトーマスランドは、未就学児向け遊園地としてかなり良くできてる(挨拶。

富士吉田駅からの富士山
富士吉田駅からの富士山 posted by (C)有芝まはる殿下。

 zyesuta氏が歴史系エントリを色々ぶくまして下さってて、何となくお蔵入りエントリを思い出したので、折角だから埋め草的に載せておこうというお話で。何か最近は「厩戸王」って表記するのが流行だけれど、それってどうよ、って話題。

 基本的に、この時期の皇族の「生前に使われていた名前」ってのは、それ自体が現代的な本名、或いは忌み名であるとは思わないほうがいい。要するに、ある種のニックネームである。ただ、大方においてそれらの「生前名」というのは、生地ないしは養育地の名前をさすのが一般的である。
 例えば天武天皇の「大海人」は恐らく海人部というか海部の養育者の存在を推定すればいいし、同時期でも推古は「額田部皇女」という生前名を「幼名」として書紀に残している。
 さて、この観点から見ると、恐らく聖徳太子と呼ばれる皇子の「本来の」呼び名として、史書に残る範囲で最も近いのは、生地を冠した「上宮皇子」になるのかな、という気がする。「上宮聖徳法王帝説」は、後世の成立ながらかなり古い史料を利用していると評価されるが、そこまでの執念を持ってこの書をまとめたほどに聖徳太子ヲタクな著作者の目からすれば、「本来の呼び名」として「上宮」が相応しいと判断したのだろう。
 また、やや後世の資料でもそういった史観はオーサライズされている。
 平安時代の律法解説書である「令集解」において、天皇諡の定義として
謂。諡者。累生時之行迹。為死後之称號。……一云。上宮太子称聖徳王之類。
として、はっきりと聖徳太子というのは後世の諡であり、この皇子は本来の名を「上宮」と看做している訳だ。

 一方で、本来記紀に残る通り、この皇子の「生前の呼び名」が「厩戸豊聡耳」ならば、それ自体かなり特殊な部類に入るのだろう。要するに、事績からのニックネームがそのまま「生前の呼び名」として通用している、ということになる。
 このようなある程度キャラクター志向な呼び名がより広く流通する例と言えば、皇極/斉明の「宝皇女」くらいしか思いつかないが、こちらは王位に即位していて、しかも退位したまま生存してた時期が少なからず存在する特殊例である。その意味では、この皇子の「生前の呼び名」が「厩戸豊聡耳」ならば、ある程度以上尊崇の度が生前から高かったために、そのような美称が流通した、ということになるのだろう。
 つまり、「聖徳太子」の生前名称として「厩戸」とか「豊聡耳」が使われてる=この皇子は他の皇族から見てもかなり特殊な存在、とされるってことになってしまうんだよな、と。
 非存在論というか、この皇子に対する「幻想」を排する方向性のアプローチをする立場とは、この呼び名は実は本来矛盾するという側面があって、この「厩戸王」って表現は何か微妙にスジの悪い呼称を採用しちゃってるなぁ、なんてことを考える。それならば「上宮皇子」でいいじゃん、みたいな。この辺りの表記って、誰が流通させたのか、ちょっと不思議だったり。

 しかし、そもそも論として、淡海三船が漢風諡号を撰進した天皇については全て「聖徳太子」と同様な「後付け」の名前なのだけれど、教科書においては当たり前に流通していて、わざわざ上代の天皇を例えば「天豊財重日足姫」のような冗長な和風諡号で表記しない、なんてことは便宜的に当然のごとくなされているのである。
 それを皇族レベルに敷衍するならば、聖徳太子もまた別段無理に「厩戸王」のような表記にするのは不自然なことであろう、というか基準として不整合である。また「王」という表記も、実際天皇号が採用されているか曖昧な天智や天武を「中大兄皇子」だとか「大海人皇子」と表記してることを考えれば、不整合。
 で、そこまで「正確性を期する」覚悟があるならば、全ての教科書や副読本で上代の天皇や大王については、より近い代に採用され、日本書紀でもオーサライズされているところの和風諡号を用いるべきであろう。きっと、字面的には物凄くウヨク臭のする教科書が出来上がりそうな気がしてならんのですけれどもね(苦笑)。
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テーマ: 歴史雑学

ジャンル: 学問・文化・芸術

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終戦の日は暮れて。 

 戦い済んで、日は暮れて(挨拶。

管制塔の夕景
管制塔の夕景 posted by (C)有芝まはる殿下。

 てな訳で、コミケで秋葉なうとかオフなうといった遣り取りを寂しく眺めるだけの簡単な仕事が終わり、何となく8月15日らしい話を8月16日に書いてみるってことで、ぶくまで拾った辺りから2件。
 まとめた割に、無駄に長ったらしくなったので、続きを見るでどんぞ。
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テーマ: 戦争・原爆

ジャンル: 政治・経済

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「ナニワさん」じゃなくて「ののワさん」が発見されたら凄かったが。 

 青電追っかけ時の副産物(挨拶。

軌道内公衆立ち入り
軌道内公衆立ち入り posted by (C)有芝まはる殿下。

 で、本題ですが、すんません、アイマス話は無いです。

韓国の木簡に「ナニワ」さん 7世紀、日本人の名前か@asahi.com

 今回の発見で特筆すべきなのは、7世紀の百済滅亡前には難波氏(というか、難波吉士氏)が「連」姓を得ていたことで、こうした技術者系の氏族に対しての賜姓の時期とか、海外使節に頻繁に名を連ねていた難波吉士氏の地位の向上、みたいなのが確認され、また書紀において記される氏族の「役割」的な部分に関しての信頼性が確認された、という面もあろうか。

 難波吉士氏の「吉士」とは、新羅の官職とされ、一般的には新羅系の渡来人を指すと言われることが多いが、実際には有名な王仁は百済系漢人を自称するものの古事記において「吉師」と冠されていたりするし、難波氏は平安期の姓氏録においては高句麗の広開土王の子孫とされるので、案外半島内において融通無碍に使われていた可能性も否定できず。「難波」と敢えて付くのは、この渡来集団が比較的難波近辺に固まっており、海運や外交に従事したことのあらわれであろうか。
 で、王仁の渡来は応神期と伝えられる一方で、この難波吉士氏の初出は、書紀では多分安康元年(454)辺りで、この年に安康に殺害される大草香(仁徳の皇子)の重臣として難波吉士日香蚊という人物が現れ、日香蚊は主君に殉じて自害し、その後雄略朝において子孫が大草香の無実が晴れたことで名誉回復され「大草香部吉士」を賜姓された、とある。実態としては、5世紀の氏族に「姓」が無かったであろう、という推測は以前書いた通りで、この後半部の伝承自体はある程度後世のエピソードを繰り上げられたものであろう。大草香部出身の難波連大形は天武朝にあって「帝紀及上古諸事記定」という、言わば史料編纂のスタッフに名を連ねており、自家の伝承を史書にて顕彰するのに有利な立場にあった。史実に照らしても、本朝が高句麗と険悪な関係にあった雄略期に、高句麗系を自称するこの氏族が厚遇を受けたと考えるのは決して現実的ではない。

 一方で、渡来系の「吉士」に関しては、記紀はもう一つの矛盾した系譜を示していて、それは五十狭茅(伊佐比)宿禰という神功期の武将が、吉師または難波吉師部の祖とする伝承である。神功が三韓征伐から帰朝した折、後継者争いで敗北したと忍熊(応神の異母兄)とともに戦死したと伝えられるこの人物は、出雲系神別氏族として系譜上は位置づけられており、これをどう扱うべきか。
 渡来色の濃いこの氏族を出雲系と位置づけるのが作為であることは言うまでも無いが、興味深いのはこの系譜作為が神功伝説とリンクされている辺り。
 神功が半島を制圧したという伝説自体には多分にフィクションが含まれるが、その息子応神の世代は、史料的に確からしい雄略没年から25年/世代として405年以前くらいと系譜から推測され、丁度高句麗における広開土王の在世に重なる。無論、広開土王と言えばその生涯において倭との戦闘が大書されるような存在であり、そうした状況を考慮するならば、この「吉士由来伝承」は、高句麗との敵対的な関係の本朝側における痕跡として記紀に残された、と見えなくは無いだろう。
 その上で、史実の難波吉士氏、というよりは「難波吉士族」的な高句麗の渡来集団としてもいいかも知れない、が、本朝に渡来した年代はやはり、同じく「吉師」を名乗る王仁と同様に、応神~仁徳期辺り、すなわち4世紀末~5世紀前半を見てもいいとは思われる。ただ、広開土王が健在で、倭に対して敵意を燃やしていた時期に渡来したと考えるのは、余り現実的ではないかもしれない。或いは実力で拉致したならば、史書はそれを「戦果」として記するであろうが、書紀は対高句麗でそのような事績を記してはいないので。そうすると、長寿王に代替わりし、しばらく三国史記でも平和な時代として描写される420~430年代辺りをこの集団の渡来時期として、また姓氏録における高句麗出自に関しても、信頼していいのではないかとは思われる。書紀にも、仁徳紀に高麗使の来朝が二度記録されており、そうした友好的な外交の文脈で彼らは定着したのではないか。

 ところで、そうして見た場合、前述した大草香誅殺の「外交的な」意味合いも浮かんでくる。
 三国史記では444年に、倭による新羅侵攻が記録されており、文脈的にこれは新羅の「負け戦」的に見えるものである。この後、新羅は高句麗と敵対し、百済に近づく。一方で、中華の宋朝は451年に、兼ねてから倭が主張していた、新羅を含む「六国諸軍事」のお墨付きを公認しており、恐らくはこの辺りの外交的な変化は、444年の倭の「戦勝」が影響を与えているのではないかとも推察される。それに対し、454~455年に高句麗は相次いで新羅・百済を攻め、三国の戦乱が再発した。
 大草香誅殺はまさに、その454年に記録される事件である。
 安康紀の紀年についての正確性は議論があるかも知れないが、雄略以降はほぼ信頼できる傾向にあるので、ここもギリギリ信頼すべきかと思われる。そうすると、難波吉士氏を従えていた大草香の立場として、「親高句麗」というのが浮かび上がる。或いは、この皇子自身が渡来系の母から生まれた可能性もあるかなとは思うが(史書に残される皇子としては、母の出自が怪しいので)、それはそれで置いといて。ともあれ、難波吉士氏という渡来氏族は、そうした本朝と三国の4~5世紀における関係史においても、ある種の示準的な役割を果たすようには思われる。
 そういう文脈でも、今回の発見によって難波氏の実在性がクローズアップされたのは興味深い現象、ではあったかな。

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テーマ: 歴史

ジャンル: 学問・文化・芸術

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「邪馬台国」が余り一人歩きするのも。 

 聊か旧聞なれど。

3世紀、卑弥呼の宮殿?整然と並ぶ建物跡 奈良・纒向@asahi.com
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)で、3世紀前半の三つの建物跡が同じ方位を向き、同一線上に並んで建てられていたことがわかった。市教委が20日発表した。周囲には約40メートルに及ぶ柵(さく)列の遺構もあった。市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と指摘している。

 つー感じで、纏向遺跡の「邪馬台国説」がヒートアップ気味なわけですが。
 邪馬台国ってのは自分らが子供の頃は「弥生時代」として定義されていたように思われますが、どうも最近の研究だと「古墳時代先駆期」としての見直し、みたいな方向であり、そういう文脈で「古墳時代先駆期」の代表的な場としての纏向を邪馬台国に比定する、みたいな感じにはなるのでしょうか。ただ、個人的には具体的にこの遺跡が邪馬台国、みたいな比定ってのは今ひとつピンと来ない部分もあったり。

 というのは、邪馬台国という形で対外的に名乗った「クニ」は、ある種非常にバーチャルな印象があるのですね。
 もうちょっと言えば、1800年前における始原的な本朝の国家観みたいなものの構築の中で、ある意味「観念的に作り出された」ように思われるものです。それは、前にもちょっと書いたけれど、北米植民地の揺籃期から独立期辺りに通じるものがある。アメリカ合衆国の独立宣言は「The unanimous Declaration of the thirteen united States of America」とあり、訳せば「アメリカ13ヶ国連合の共同独立宣言」となる。アメリカが共和政体をなしたのは、特に独利宣言に言及された「自明であるところの『生まれ』の平等」を尊重したと言うよりは、この「13植民地という個別政体に対して上位的な存在の観念的国家」の概念が欧州における従来的国家概念と合致しないために、王を置くのがある種の認知的不協和だったゆえではないか、と考えたり。はサテオキ、邪馬台国というものが戦乱の2世紀を経て成立するに当たり、魏志倭人伝に書かれるように従来の男王を改めて「女王を共立」したというのは、こういう「新たな国家観念の成立」を覗わせるもののように自分には見受けられます。
 その上で、邪馬台国ってのは「ユナイテッド・ステイツ・オブ・倭」としての観念が、ある種ミスリードして現代に伝わっているようにも思われ。
 要するに、仮に邪馬台国的な中心が現在の奈良盆地にあったとしても、往時の倭は、北米13植民地国家がそうであったように、勢威の差はあるもののある種フラットな関係にあり、その中でのペンシルベニアやマサチューセッツのようなハブ的な場が奈良盆地の国であったに過ぎず、その意味で特に大書されるべきものではないような。邪馬台国というのは、あくまでそういった諸国群の「連合的な概念」であり、纏向も恐らくはそのメンバー、という観点で見ればいいのではないかな、と。

 その上で、邪馬台国を経て古墳時代に至るヤマトのヘゲモニーというのは、ある種の日本史における大きな謎ではあるかなぁ、みたいなことも考えます。要するに、基本的に本朝の古代においては一貫して文化の輸入元は海を通じた隣接地域であり、その中で圧倒的な影響力を持つのが西辺の中華である以上、隣接地域との接点の中で最大のハブは必然的に九州であるはず。そして実態として、紀元前後くらいはほぼ明らかに倭国王と中華が呼ぶのは「九州の王」でした。そうした中で、3世紀、遅くとも4世紀にはそのハブがその九州を離れ、瀬戸内の水運はあるとは言え相当に大陸からは奥まった近畿地方にまでシフトするように見える現象は、「何故だろう」と考えるとなかなかに興味深い。先に例示した北米的に見れば、欧州の影響を一様に受けつつもアメリカの首都がセントルイス辺りまで引っ込む、みたいな、結構際立った事象であり、九州王朝説が一定の支持を受けるのも「そんな無茶な話が起きるのが信じられない」的な感覚から来るものなんでしょう。

 単純に考えれば、本朝の古代にあって「九州をスルーする伝播」が無視できないほどに大きく、そこで得られる文物を西日本と共有するにあたり、ハブとなる地域として近畿地方がクローズアップされた、という構図なのだろうか。九州をスルーするというのは、例えば環日本海的な朝鮮北部や沿海州から出雲・但馬・越辺りに繋がるルートや、琉球から黒潮を通って太平洋岸に至るルート、或いはシベリア東岸から樺太・千島を経由して東北に至るルートなどが想定できる。一方で、そうした上陸地から今度は西を目指すとなると、特に東国からのルートにおいては紀伊半島と能登半島が結構な壁になってて、迂回路を取らないとすると一回は近畿地方を通らされるように見える。そして特に、現代の大阪や神戸に比べて、やや南よりの住吉から堺辺りに往時の良港があった中で、大和地方が注目されたのかなとも。
 とまれ、そういう「物流的」な文脈でヤマトが成立したとするならば、ある意味纏向という3世紀のハブが大事であるのと同様またはそれ以上に、圧倒的な先進度を誇る九州からの文化に相対しうる存在としての「東国」が何であったか、みたいな部分にもっと光が当てられるべきなのかなぁ、ってことは考える。尾張や越のような、比較的早い段階から書紀などの史料においてもヤマトと連合的な勢力にあった東日本の地域が、「何をもたらす」ことでその地位を得ていたのか、みたいな観点が重要なんでしょうな。
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テーマ: 史跡

ジャンル: 学問・文化・芸術

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古代の氏姓についての大雑把な理解。 

天皇家は何ていう名字だったんでしょうか?むかしは曽我氏や物部氏みたいな名字があって、戦争に勝って日本の君主(天皇)になったから名字がなくなったと予想しますが、もとは何ていう名字だったんでしょうか?@はてなQ

 ま、そんな深い話でも無い気はするけど、結構ぶくまを見る限り関心を持ってる人が多そうなので、ログ程度に。根本的に苗字と姓と氏は違う、みたいな基礎論はウィキペでも見て頂くとして。

 とまれ、姓なんてそもそもそんな普遍的な文化ではないですよね。
 現代にあってすら、人名において名字なり姓のごときものがつくカルチャーは普遍的ではなく、有名なテロリストの人は「ラーデンの息子のウサマ」だったりしますし、欧州においても「アレクセイ・セルゲイェヴィッチ・スミルノフ」みたいな感じでミドルネームに父の名前を冠したりするロシアにはその残滓が残ってたり、「ホセ・オルテガ・イ・ガセ」のように父と母の名字を名乗るスペインみたいなのもちょい変り種としてあったり。

 で、古代における本朝ではどうだったか、と言うと、もともと姓がなかったってのが妥当な見方と思われる。この手の系図資料として最古のものは当然ながら稲荷山の鉄剣な訳ですが、ここで顕彰される「ヲワケの臣」とその祖先の中に、氏族名を記すような記述は存在しない。或いは、この当時のもっと上級の貴族(葛城氏など)には氏族の名前はあったかも知れないけど、その辺りは実際判然とせず、まぁ現状はこの安倍氏に近い皇別氏族が姓氏を名乗っていない以上、まぁ穏当には「なさげ」で。

 その一方、本朝にある程度以上近縁な文化として比較しうる朝鮮半島を見ると、これがまた微妙。
 確かに三国史記には新羅や百済に昔氏とか解氏とかそれっぽい氏族名が残ってるけど、なにせこの史料自体に同時代性が余りないだけに、後付で統一新羅時代に創られた姓を仮冒したようにも見えなくはない。
 その上で三国史記や或いは日本書紀をある程度オミットして金石文レベルで同時代史料を見ると、例えば「寧東大将軍百済斯麻王」と書かれた武寧王の墓誌なんかもいきなり忌み名の「斯麻」(日本書紀にもこの名は「嶋君」とある)で、姓を冠してはいないし、広開土王碑の始祖伝説などにも姓を名乗った形跡は残っていない。
 一方で、これらの王朝に関しての中華の資料は、高句麗が「高氏」、百済が「余氏」、本朝が「倭氏」を名乗ったと記録していて、これだけ見ると「何だ、半島や日本にも姓はあるんじゃん」と思わされるが、これは実態のあるものと見るべきではないだろう。これはあくまで外交上の方便として中華王朝に対して仮冒したまでで、国内的にはそういう姓を流通させることはなかった。その何よりもの証拠は8世紀の本朝に残る「百済王」という氏族で、これは白村江の敗戦後に亡命した百済王族に対して賜られた名前である。もし百済王族が日常的に「余」という姓を意識していたのならば、何故にわざわざ屋上屋を架すがよろしく新たな姓を付与する必要があったのでしょう?
 ならば、本朝が5世紀に対外的に名乗った「倭氏」や、7世紀に対外的に名乗った「阿毎(天)氏」も、どこまでの実体を持つかは怪しい部分ではあろう。強いて言えば、7世紀の木簡ないしは金石文で皇族らしき名前で「阿毎」ないし「天」を冠するような超A級史料が出土すればこの辺りは覆されるものの。

 さて、恐らく5世紀くらいまでの本朝はある程度以上、小国家(実態としては周辺の諸地域からの移民によるコロニーであろう)の寄せ集め的な文脈で築かれた、初期の北米13植民地的な連合国家であったように思われ、恐らく王権は外交的な方便として「統一国家」らしき体裁を整えるために存在した、ように思われる。この国家は邪馬台国を中心に連合していた頃に「倭」というある種の統一政体として中華のお墨付きを得て、その統一性を捨てることを遂に選ばなかった。この辺りは三国と任那に分かれて結局統一されなかった半島側諸国と対照的。
 因みに「倭」自体はもともと「楽浪海中」と言われるように半島南部というか対馬海峡周縁の海上民族を指すものだったと思われるが、丁度北米東海岸の連合国家が新大陸全体を指す「アメリカ」の名を国名に借り受けたように、元々の定義とは異なる範囲の諸族が「倭」というネーミングライツを自称したように見える。で、そのオリジナルな「倭」のうち、朝鮮半島側は離反して百済や新羅の封臣となり、一方で九州側は離反の動きを見せようとしつつも最終的には本州の王権に併呑されたっぽい……というのが継体~欽明期、要するに6世紀前半くらいのお話。この結果として、大方の本朝のドメインがある程度集権的な確定を見て、統合化が強まったように見える。

 それに従って、史料の上にも物部や大伴、蘇我といった御馴染みの「豪族」が比較的系統的な氏族名を伴って活躍を始める。また、臣・連のようなカバネの制度も出来てきたり、といった具合で、ある程度古代的な氏族制度が完成されたようにも。恐らく、国造とかあの辺りを制定するのとほぼ同期して、賜姓のようなものが権力の機能として組み込まれたのではないか。
 或いは、継体即位などに代表される王統混乱期にあって、王統の正統性を確保する意図もあったかも知れない。これは7世紀前半の新羅において女系相続が続いた後に文武王の段階で「金春秋」といった中華風の創氏改名により氏族改革がなされた辺りにも通じる現象ではあろう。ただ、それをより古い時代に行った本朝では、王族自身が氏姓を持つことはなかった可能性が高い、というだけで。

 ただ、個人的に不思議なのは、この時期の本朝には、結構もともとの氏を持っていたであろう中華からの渡来氏族ってのもあるし、それらは6世紀のかなり後半くらいまで、要するに随の統一前夜くらいまでのレベルで流入が続いてるんですよね。隋書なんかでも遣隋使の返使が「何か中華文明を普通に保ってる地域があるけど、なんぞこれ?」みたいな記述がありますが、これなんかは100年も200年も定住してたら中華文明とは似て非なるものになるに決まってる訳で、余程新しいコロニーなのだろうなと思われ。そういう辺りの部族ってのは、7世紀後半の律令国家の枠組みの中でどういう感じで「日本化」されたんだろうか?まぁ大半は、元の氏姓を捨てて国内で伝統を持つ氏族をかたるようになったのかな、って気はしなくもないけど。
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テーマ: 日本文化

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