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殿下執務室2.0 β1

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有芝まはるが綴る、競馬話その他の雑談、そしてYet Another Amateur Photography。

ニコ動的コメント世界での、適応の文脈。 

 例のハゲのおっさん問題について。
 感覚的にしっくり来たのはこの辺りのエントリだったのだけれど、若干補足として自分の思ったところを。

 基本的には、こういう場所で「ハゲ」と言い放つ態度自体がキモいと思うのは正気であろうな、とは思う。そもそも、見ず知らずの人間に「ハゲ」と思ってもそれが分かるように言うことは非常識に決まってるので。その意味では、思ったことにフィルタを掛けないニコニコのカルチャーは、結構通常のコミュニケーションには有り得ないような難しさがあるには違いなかろう。要するに「ニコニコする」には相応に「正気を失った」ところのムラの掟を内面化してなければならない、みたいな。
 しかしそこに違和感を見いだすのは、そのカルチャーの「外部」に身を置いていると意識しているからではあろう。少なくとも、ニコニコ大会議のような場にわざわざ足を運ぶような向きが、自らをそのカルチャーの「外部」に置いていると意識してるなんて考えるのは、余りスジの良い考え方ではない。その上で、ニコニコで歌ってみたやら踊ってみたやらしてる人の大半が顔を隠してることに思いを馳せると、その場でコメントが動画に乗っかっているという状況が分かってる状態で質問に立つことは、何気に結構敷居が高い行為であることは否定出来ない。大概のニコ厨ってのは、そういう顔出しすら嫌がるヘタレなのだから、そのキャズムを超えている時点で、件のハゲ氏を含めてこの場に立った人は相応のマッチョであり、ある意味「か、漢だ……」と思われているからこそ弄る側の敷居が下がってる面は考慮してもいいかもだし、質問した側も見た目について言われたところで実際臆さないタイプの人だった可能性は高げ。

 で、この状況を「いじめ」とするのに激しく同意しづらいのは、d:id:thir氏のエントリのブコメにもあるけど、いじめって「継続的である」という条件があるよね、って辺りで。件のハゲ氏が今後ともニコニコにおいて顔出しをし続けたり、ある種のバイネームを持って振る舞い続ける確度は非常に低いのではないか、と予想するのはさほど大間違いではあるまい。ならば、ここで大概なことを言われたところで、彼が今後ニコニコにおいて継続的に「ハゲ」と蔑まれる場所は、存在しない。彼はそれ以外の場所で今後平然と動画を愉しみコメントを書き、或いは自作の(顔出ししない)動画を上げていても、誰にもあの時のハゲだとは気付かれないのだ。「いじめ」における最大の恐怖は、継続的な攻撃に対する回避の不可能性であるが、本件における回避可能性はどう考えても著しく高い。言わば、匿名であることがセーフガードとして作用している。例の増田がハゲ氏かどうかは自分には検証出来ないが、そうだとするならば、氏は恐らくそういった「匿名の利点」を全く以て正しく理解していたので、弄られても痛くも痒くもなかっただろう、と読んだ。
 確かに、弄った側がそういう「匿名の利点」を正しく理解した上でその安全性の文脈で弄ってたかは正直疑問であるし、そっちの方がむしろ問題ではないかと論じるシンプルな見識には自分も同意するに字義通り吝かではないが(「弄り」が「いじめの種」であることは論を俟たない)、要するにあの空間で「弄られる」ことがそう簡単に「いじめ」という形に固着しないことは、もうちょっと理解されるべきではないかと。
 この辺りの「感性」の違いってのは、詰まるところはてな村のごとき似非匿名社会で、ブログのような非揮発的なメディアに対して日頃コミットしている人たちと、ニコニコというバイネームがほぼ不可能で発言の揮発性が高い空間に日頃コミットしている人たちの差ではあるだろう。(従来の)ネットの揉め事がリアルと比較して沸点の低く粘着的になりがちな背景として、「書き言葉的な特質として、発言がある意味取り消しづらい」という要素はあるわけだが、揮発性の高い、すなわち書き込みが話し言葉の文脈に近いニコニコを中心に暮らしている分には、そういうネット上での対人的フレームの特質をバイパスすることが出来るように思われる。そういう所で、「あちら側」の人たちは、「こちら側」が「ネットの常識」としてある意味ナーバスになるところを軽くスルー出来るセンスを持っているのではないか、なんてことを考えた。その上で、匿名な空間では「何を言ったかで評価される」という要素があり、ハゲ氏としてはそういう点でも「見た目について弄られること」と別のレイヤで「何を言ったかで評価される」ことに楽観的ではなかったのかな、なんてことも。

 個人的には、冒頭にも書いたように「こういう場所で「ハゲ」と言い放つ態度自体がキモいと思うのは正気」であるからには、津田氏の指摘はそれなりに中ってるとは考えている。ただ、何となくこういう風にはてな村その他でフレームアップしてるのを見ると、微妙に「正気を失って」いるように見えるというか、脳内被害者をでっち上げて過剰に自分の的を投影するための道具として利用してるような違和感はある。この辺りは、ブログやブコメとTwitterのコミュニケーション的携帯の差異として面白いと言えば面白いんだけど。とまれ、ある種の「匿名カルチャーの進化形態」としてのニコニコのコメント世界に対して、その世界に内在するある種の柔軟性というか強かさへの慮りを欠いた状態での批判ってのは、自分にはおぐナントカ先生やいけナントカ先生が展開されてる「匿名批判」の同音異曲のようなものを、一段ずらしたレイヤで演じてるだけのようにも見えたのでした。どっとはらい。

◆まぁでも。
 ニコニコでも一旦「作る側」に回ると、「自分の人格」が固定された状態でネット生活しないといけなくなるんで、その辺りはまぁさほど「従来の世界」と大差ないというか、限界はあるような気はしますけどね。
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俺のキモさを称えよ、的精神。 

 トラバスパム消した勢いで一部普通のトラバも消してしまい(挨拶。
 ぶくま字余り補完系エントリ。

オタクは弱者?@メカAG
ちょっと前にオタク文化論といったオタクを肯定する流れが盛り上がったが、それが出発点なのだろうか。オタクを肯定するのは大賛成だが、何もいきり立って世間の「偏見」に反発したりそれを取り除こうとする必要はないんじゃないのかな。俺のこの考え自体が古いのだろうか。
 この辺り、結構典型的なオタク世代論的な話になってしまうのだけれど、古来のオタクってのはある種の道楽者気取りみたいな部分は確実にあったというか、「フハハハ、愚民に俺様のことなど分からぬ」的歪んだエリート主義はあった気がしています。また逆に、ある程度「人が知らないことを知る」「人が手を出さない趣味を持つ」みたいなのがある種の自慢である、みたいな。そういう非常にテンプレート的な世代論に従うならば、昔のオタクは世間にキモいとある程度思われるくらいが丁度良い、みたいなのを体感的には持っていたんではないでしょうか。勿論、それで喰えるレベルにまで趣味が嵩じてしまうと、ある程度読者というかフォロワーを養わないといけない、みたいな部分で世間にある程度阿っても自分の領域の知名度を世に高めるみたいなプロセスも必要にはなってくるのでしょうけれど。
 ただ、現在の状況と言うと、結局オタクが産業的に広がっていてコミュニティも昔よりもよほど規模が大きくなってる一方で、世間の認知度が昭和とさして変わらないとすれば、それはある程度オタク側で認知的不協和というか、「何か政治的に不当に扱われている」みたいな思いが出てくるとしてもそう驚きではないのかもしれません。例えば、今時大概なエリート青年実業家(笑)みたいな人でも子どもの頃はファミコンやってて、「こっち側」のカルチャーに十分入り込んでた訳です。それなのに、ちょっと「それ」への情熱が強くて長く続いていたのに何で俺だけが、みたいな意識みたいなのもまぁあって不思議ではないと言えばそうだろう、とも。
 ただ、ちょっと視点を変えて思うに、例えばDQNのカルチャーなんかはある程度層があってなおかつ漫画などでも決してネガティヴには描かれなかったりする反面、あれはサブカルチャーであり続ける訳です。それは、彼らのカルチャーが「イリーガルな部分」に依拠するから。その上で、オタカルチャーが果たしてそういう「イリーガルな部分」に全く依拠しないかというとそれはそれで疑問。まぁ、当然大概のオタクは軽犯罪ないしそれに類する範囲を除いては重い罪を自分の趣味範囲で行ってはいないはずだけれど、カルチャーとしてどうしてもオタカルチャーは性的なカルチャーとの接点は存在するものであり、少なくともそのイメージは持たれている、と考えないといけない。ならば、「本当の意味で」オタクが世の中に対して「市民権」的なものを持とうとするならば、ある程度自らの遵法精神を強調するような活動をしていく必要はあるのかな、みたいなことは思う。
 で、そのモデルとしては、日本中央競馬会ってのがありましてな、というお話。要するに彼らが行ったキャンペーンってのは、競馬ってのはバクチではなくて娯楽である、みたいな側面を昭和の半ばくらいからずっと続けてきたわけ。で、その彼らの営業努力ってのは報われ、競馬というスポーツは平成の入り口辺りに至って、ある程度まで市民権を得た趣味ジャンルとなりました。ただ、そういった中でよく言われるのは「鉄火場の雰囲気が失われた」、みたいなのがあるんですね。要するに、「ジャンルとしての『濃さ』」みたいなのがやや損なわれた面がある、と。オタカルチャーもオタクやコンテンツ提供側の努力によって、やがては市民権を得るかもしれないけれども、或いは「タダで」その地位が得られるかというと、その可能性は低いかも知れません。要するに、その頃のオタカルチャーは、多分今現在我々が愉しんでる「濃さ」はないかもよ、と。その辺りは、若いオタク層にはちと肝に銘じて欲しい気がしますね。
 ま、個人的には「オタク=犯罪者ではない」みたいなことは言い続けたいとは思うけれども、少々キモいと思われるくらいは褒め言葉と思う意識は必要かもよ、とも。
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消極的モナーキズム 

 Vive Nicolas I, le Prince d'Andorre!(挨拶)
 という訳で、世界にまた一人君主の後継者が誕生したことを言祝ぎつつ、君主制の話題でも。

日本に天皇は必要か否か@( ;^ω^)<へいわぼけ
天皇制と天皇家の違い@bewaad institute@kasumigaseki

 個人的に、天皇制(ないしは類似の君主制)が必要かどうかという議論において面白いケースはモナコの王統でして、あれは確か「王統の継承者がいなくなった時点で公制廃止」だったような気が。要するに、基本的に自由主義国家の立憲君主国など、大概はもはや君主が本当の意味で必要かどうかといえばそれは微妙な話ではあるわけですが、そんな中で明示的に「廃止」を宣言した場合、それは「復辟勢力」という無駄な不安要因を国内政治に抱え込むことになる訳ですよね。つまり、「天皇制を廃止しても天皇家がなくならないこと」がそれはそれで問題である、と。それが例えば右翼的なものと結びつくことで国内にテロが増えたりするならば、それはそれで余り国が幸せになる結論にはならないし、ヘタすると君主制をメンテするための費用以上にコストが掛ってしまうなんてことにもなりかねません。一方で、君主一族を追い出すような措置は結果として君主制を維持するのと同様にある種の「平等主義」にもとるという矛盾が発生しますよね。
 その上で、逆に言えば「復辟すべき有資格者」が存在しなければそのコストを心配する必要はなくなるわけで、「継承資格者」が存在しなくなった時点で君主制を停止する判断は合理的という点では「あり」ではないかと思われます。勿論、日本も含めて。この辺り、英連合王国などは継承資格を数百人単位で大安売りすることで、そのケース自体を消している訳ですが(ベネルクスや北欧はどうしてるんじゃろう?)、本朝では「天皇制維持」に強い思い入れのある保守派が逆に「男系継承」に拘ることによってやや選択肢を狭めている印象も。実際、旧宮家復活と言っても数には限りがあるようにも思われますし。

 で、世において議院内閣制をとる国家において行政府の長たる首相と、ある程度象徴的な国家元首たる大統領を分離しているケースはある訳ですが、結局のところは行政府の長がそのまま国家元首になることが三権分立のバランスを悪くする、みたいな考え方が背景にあるかと思われます。そういう意味で「行政府の突出を抑える」ための国家元首は比較的合理的に「あり」な存在。一方で、そういう存在を考えるとすると、その権威付けというものが問題になる訳ですが、例えばドイツなどは元々連邦国家としての選帝侯の伝統があり、その文脈で(日本よりも強力な)州議会を交えた間接選挙として大統領が選ばれている、という次第。ただ、それにしても基本的に「ハンコ押し」の元首であるならば、君主制が存続している場合にはそちらに任せた方が政治的に波風が立たず無難である辺りがメリットとなり、なかなか平時の王政廃止は世界的にも見られないようにも思われます。

 一方で、もし日本が君主制を廃止した場合に、このエントリで引用されるように「国民から支持されて皇統は十二分に維持され」るかと言えば、ちと微妙ではありかなぁとも。例えば戦国において結構天皇が貧乏で苦しんでたみたいな話は聞かれますし、今の天皇家自体が結構皇室費を相当にケチられてる現状があるだけに、全うな資産家として生きられるかどうかは少なからず微妙な状況ではあるかなぁと思われます。その辺り、血縁で他の残存する王国とのコネクションが存在し、またある程度資産を残しつつ王位や帝位を去った欧州の数々の君主の子孫(いわゆる、現在のPretender)とは若干事情が違うようにも。あと、日本の保守って意外とそういう辺りできちんとお金を使ってくれなさそうなイメージもあるんですよねぇ(苦笑)。まぁそのあたりの事情も含めて、天皇家、今のまま存続させる方がやっぱりいいんでないかなぁというか、「退位した方が天皇ラクじゃん」とは余り思われなかったり。
#天皇自身の定年というか、一定の年になって隠居する自由はあっていいとは思いますが。
##あと、なかなか結婚しづらい状況はしんどいよなぁ、とか。
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静粛に対する要求の高さ 

 どうせネタ的にはこないだのエントリと微妙に被るし、増田でレスした方が読む人は多そうだが(苦笑)、敢えてバイネームでトラバにする。

妊娠の一番大事な時期である妊娠初期は……@増田
妊婦だけじゃなくて産んだ後も大変。
そもそも、赤ちゃん連れで電車やバスに乗るだけで、周りから白い目で見られる。
赤ちゃんが泣き出そうもんなら、それこそこれ見よがしに連れて出て行け的な視線を浴びる。
ファミレスに行くのだってはばかられる。
だから基本的に赤ちゃん連れだと出歩けなくって内にこもっちゃう。
 思うのだが、「白い目で見る」とか「出てけと言わんばかり」とあるが、実際に「優先席座るな」とか「子供泣かすなら外でやれ」と言われたことがある人は流石に本朝においても相当に運の悪い部類であろうし、また現実にそういうことを言い出す輩が出た場合、普通に観客である周囲の人物の多数から同情されるのは妊婦や子供連れの方ではないかと愚考する。その意味では、子供を連れて出歩くことに関して余り引け目を感じるのはどうだろうか、と思わなくもない。また、特に満員電車においてはそうであるが、物理的に人の目が多いので、って問題もあるかも。例えばラッシュの電車で視界に入る50人程度のうち1人か2人がそういう目で見てたとしても、所詮は2%か4%の少数派であると考えれば、少々はラクになるんではないかと(まぁそういう気の持ち方が難しい、ってのは重々承知しますが)。

 ただ、本朝の公共空間についてやや自分が気になるのは、この周囲の増田にも散見されるように、とにかく「静粛に対する要求が高い」ことである。この辺り、香港の地下鉄などで華人が携帯電話でまくし立ててる姿とは対照的な部分ではあるが、東京では日常の屋外で聞く人の声は小さい。また、デパートや家電屋などでも、販売員が声を掛けるケースはめっきり減ってきたが、これは景況の悪化による人的リソースの問題もさりながら、「静かに商品を選ぶ」消費者の側に配慮してのことであろう。
 特に満員電車においてはこれはシビアであり、例えば路上ならばまだ「ギャハハー、感じワルー」とかダベってそうなDQNもひっそりとしたものである。小学生ですら結構車内での会話は周囲2m程度にしか耳にすることが出来ない程度の小声でひっそりと喋っていることが多い。今朝も電車で顔見知りの小学生が麻智さんと話してるんだが、人の流れで少々離れてしまうと半分もその話し声は聞こえなかったりする。一方、鉄道各社も携帯での通話やヘッドホンの音漏れに対して口酸っぱく注意を呼びかけている。結局は、子連れなどがある程度疎んじられるとすれば、最も大きいのはこの「静粛に対する要求」に係る部分であろう。ベビーカーやスリング・おんぶ紐が場所を取るのは堪えられても、泣かれたらイラっと来る向きは多いには違いないだろう。或いは、上の増田においても自分がされた場合の予測を元に、自分の子供が泣き出すことに引け目を感じる面はあるようにも。
 その上で、例えば席を譲る際に「どうぞ」と声をかけること自体も、この「静粛主義」の中では通常よりも気合が必要な行為となるのではないかと思う。また有芝は男なので何とも判断しがたいが、例えば痴漢などが発生する場合、女性が驚いた声を出せば結構それで周囲が異常を察知して、そこから更に進んだ加害を食い止められると思うのだが、そのような状況が少ないから難しいのであろう。それが困難なのは、当然女性における繊細な恐怖心があるのだろうが、電車においてそのような発声をすることに関しての道徳的な障壁が大きく手伝っているのではと想像する。実際、痴漢冤罪の類も、そのような中間的な状況をすっ飛ばして「この人、痴漢です!」とまで言わないと発声が正当化されないゆえに続発する恨みがあるのではないか。
 かくにも、公共における見知らぬ者同士のオーラル・コミュニケーションへの禁忌に近いものが社会において負の影響を与えているように思われるのであるが、この「静粛への要求」が過剰なものではないか、という件についてもうちょっと社会全体が疑問を持っても良いのだろう。マナーがやや陋習に傾き始めているというか、マナーによる快適さの代償の方がが高くついている面もあるってことなんでは。
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